ミゼレレ
7.
なんといえばいいのか。
一面を覆いつくしていた濃い霧が一瞬にして消失し、透き通る蒼い色彩に満ちた空が目の前に広がったようだといえばいいのだろうか。まだ感覚が鈍くてぎこちなさの残る腕で精一杯サガの身体にしがみつき、その肩に顔を埋めた。あの大きくて広い背中の温もりを思い起こすように。
「シャカ?」
「いつものことだ......皆はきっと気にも留めぬだろう」
そういうのが精一杯だった。何かしら感じ取ったのかサガは小さく頷くと、ふわりと抱き締めるような小宇宙で包み込んだ。
「―――帰ろうか、シャカ」
心に染み入る穏やかな声でサガは告げると、私を真理の檻から連れ去った。
「言いたいことは山ほどあるんですけど。もう......いいです。また後日改めて言わせていただきましょう。抱腹絶倒しそうなので、早くここから立ち去ってくれませんか?二人とも」
サガは私を背負ったまま聖域へと戻り、十二宮の階段を上がった。最初の白羊宮では幸か不幸かムウがいたため、私を降ろすこともせずにムウと面会した。サガ曰く、「このほうが都合がいい」ということだったのだが、呆れ顔で迎えたムウの言葉になるほどと納得する。
結局はムウの無駄に長い説教をほんの少し先延ばしにしたにすぎないのかもしれないと思いつつも、遠慮なく白羊宮を退散し処女宮へと私たちは向かった。途中、不幸にも(?)奇妙な私たちの姿を目撃した仲間たちの引き攣ったようななんともいえぬ視線は少々痛かったが、無用心に話しかけてくる者もなく、無事に処女宮へと辿りついた。そこで私はトンとサガの背中から降りた。
「なんだ、動けていたのか?」
「とっくの昔に」
双眸を押し上げサガを眇め見たのち、彼の横を通り過ぎながら口端を軽く上げた。やられた、というようにサガは両手を上げて笑った。
「まぁ、でも。楽しかったよ、シャカ」
目を細めたサガは何か言いたげであったが口にはせず、長い髪を風に翻しながら舞わせると小気味よい靴音を石畳に響かせて教皇宮へと階段を登り始めた。私はその様子を石柱に背もたれた状態でしばし見つめた。次第に遠退いていく、サガのその背中に向かって声をかけようとした。
けれども、なんと声をかけるべきなのか迷った。急がないと、声が届かなくなってしまう。焦燥感に突き動かされるようにして石柱から一歩離れ、大きく息を吸い込んだ。
「......サガ!」
大きく彼の名を呼んだことで吹っ切れた気がした。石段の途中で振り返ったサガは眩しげに私を見上げ、首を傾ける。
「私は君に感謝している。ここが好きだから!ここに集う仲間が好きだから!」
腹の底から声を搾り出す。うん、うん、とサガが嬉しそうに頷きを返しているのが見えた。
「それから―――」
音を発せずに告げた言葉。当然、サガには届かない。
聞こえないというようにサガは耳に手を宛がった。もう一度、同じことを繰り返す。するとサガは立ち去ることもできたのに、わざわざ石段を再び降りて私のところまで戻ってきたのだ。どうしようもないほど律儀な男だ......。
「すまない、シャカ。よく聞こえなかった。なんと言った―――」
そう尋ねようとするサガの前に私が右手を差し出すと、サガは戸惑いつつも同じように右手を差し出し、私の手を握った。その手に私は左の手を添え、両手でサガの手を包み込んだ。
「どうした?」
「ほんとうに君という男は......あのまま行ってくれれば、私はこのまま口を噤むつもりだったのに」
「大切なことのようだな?だったら、戻ってきた自分を褒めてやらねばな......」
眦を少し緩ませるサガを真正面に見据えて、一つ一つ噛み砕き確かめながら、祈りにも似た想いとともに私は紡ぎだした。
「―――私と君の抱く想いは違うものだと思っていたし、私にはわからないことなのだろうと諦めかけたけれども。どうやら同じらしいということにようやく気づいたのだよ、サガ。君の......この手が、私に与えてくれたものの大きさと同じだけのものを私が返せるかはわからないが―――」
握っていた手を離し、私よりも高い位置にあったサガの顔にそっと両手をあてがう。
「サガ。君がミゼレレと共にあったように―――君は知らなかったと思うが、私もまた、もう......ずっと昔から私には君があったのだよ」
しばらくの間沈黙していたサガであったが一度空を仰ぎ見て「そうか」と呟いた。
そしてコツリと額を寄せ、両目を閉じたのち「すまない」とも言った。なぜそんな風にサガが謝るのか最初わからなかったが、次第にその意味を理解した。
そろそろと伸ばされた両腕がそっと私の身体を引き寄せる。徐々にその腕の力が強くなりぎゅっと抱き締められた。まるで今の私の気持ちを代弁するかのようにサガが呟いた。
「なぜだろう。シャカ......泣きそうだ、私は」
サガは私への想いに人知れず苦しんでいたのだろう。私が自覚したことでサガは私が彼と同じように苦しむことになるかもしれないと危ぶんでいたのかもしれない。知って欲しいと願いながら、ひた隠し続けるという矛盾の中で彼は驚異的な精神で清くあり続けてきたのだとすれば......。
たしかに私はサガの行動の意味や心を知ることで、また更にサガを知りたいと願い、抑制しがたい得体の知れぬ感情が私を支配し渦巻いていくのかもしれない。押し寄せる感情の波が切なさを知らしめる時もあるだろう。そんな時、恐らく私は私を責めることもあるだろう。だが、きっと私は私を赦すこともできるはず。
きっとサガの望むまま、今の私であり続けることができる。誰よりも清らかで白い雪のように降る彼の心を私は一心で受け止めてみせる。
だから大丈夫。自信をもってサガに私の気持ちを伝えよう。
君が好きだということを。
Fin.