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「おい渋沢、……なに鍵かけてんだ?」
 不意にドアの向こうから聴こえたその声で、空気の粘つきと熱が瞬時に消えた。
(いま……指、を)
 ごくり、と口の中に溜まっていた唾液を飲み下す。解放された手首を、震える手で支える。
(…舐められた……?)
 がちゃがちゃと何度もノブを捻る音。おい、と苛立った様に再び呼び掛けられ、我に返った渋沢は慌てて立ち上がる。しかし鍵を開けたのはより近くに居た藤代で、突然目の前に現れた後輩に眼を瞬かせている三上と自分で開けた扉との隙間を、彼は器用にすり抜けていった。
 三上は床に散らばった陶器の破片を見て、待て藤代、と低い声で呼び止める。
「…なんですか、三上先輩」
「お前、何をした?」
 半分ほど開いた扉の前でその特徴的な垂れ目を細め、彼は藤代を問い詰める。
「先輩には関係ないと思いますけど」
 藤代の姿はこちらからは伺えず、ただその声色が作り物めいた、さながら新品の蛍光灯の様な明るさを帯びていて、渋沢は知らず身を震わせた。
「……お前な、」
「三上、違う」
「あ?」
 苛立ちに歪んだ顔が向けられるが、そのまま弁明を続ける。
「その…おれが手を滑らせて箱を落として……それで居合わせた藤代に、片付けを手伝って貰おうとしただけだ。藤代はなにもしていない」
「へぇ。……で、なんで鍵かける必要があるんだ?」
 尋問にも思えるその問いに、言葉が出てこなかった。鍵をかけられたことにさえ気が付かなかった渋沢に、その理由が分かるはずもない。
「……それじゃ、おれ行きますね」
「おい藤代、」
「良いんだ、三上」
 気にしないでくれと、追いかけようとした三上を止めた。無言で、終業式後のあの時の様にじとりと瞳の奥を探られる。
 その視線を断ち切るようにゆっくりと瞬きをし、奥にあった箒とちり取りを手にしてから、手伝ってくれないかと笑んでみせた。親友は湯呑みの残骸を睨み付け、そして大きく息を吐いた後に箒を受け取った。
「……お前さぁ」
 溜息に混ぜた呟きの先を、無言で促す。割れた陶器のぶつかる、痛々しい乾いた音が耳の奥を刺した。
「何があったかとかは、詳しくきかねぇけど。…大体分かるし。だけどな、」
 箒を動かす手を止め、しゃがんで目線を合わせられる。
「あいつは危ない。野生動物みたいな奴だから、何するか読めねぇ。流石に犯罪染みたことはしねぇだろうけど……気を付けろよ」
 それだけ言うと三上は静かに立ち上がり、辺りを見回す。そしてちょうど渋沢が探していたのと反対側に置かれた箱に手を伸ばし、これかと呟いた。箱の中身を確認した後、掃除機をこちらに寄越す。
「あの鍋が最後だろ? 馬鹿どもがうるせぇし、もう完成だろうからこの皿と一緒に食堂に持ってくぞ。後の片付けは任せた。怪我すんなよ。……置いたら、また来る」
「…悪いな、ありがとう」
 礼を述べて微笑むと、三上は無愛想におう、とだけ言って倉庫から出て行った。

(藤代、は……)
 掃除機を杖代わりにして、その場に力無くしゃがみこむ。胸に溜まった重く澱んだ空気を吐くつもりだったが、それは酷く震えてしまった。
(なんで、あんな……)
 先ほど怪我をした指先を見る。中指の腹を縦断するように切れていたが、既に血は止まっていた。
 傷を意識した途端、じわりと感じる痛み。何故か甘い痺れを伴うそれに、数分前の行為がフラッシュバックする。

『渋沢さんの血って、凄く美味しいんですね』

 傷口を吸ってそう言ったあの薄赤い唇が、その上に光る黒い双眸が、ぎりぎりと胸の奥を掻き毟る。傷跡は熱を帯びている。

 ――逃げられない。
 渋沢は漠然とした、けれど確信し得る自分の考えに、息を呑んだ。