錠のない鍵
1.
「九十九くん」
校舎裏の隅っこでうずくまるように座り込んでいた遊馬に、突然誰かが声を掛けてきた。
一瞬びくりと身体を震わせ、恐る恐る声のした方を見上げる遊馬。それが小鳥であることを知ると、今の態度を取り繕うかのように彼は曖昧な笑顔を浮かべる。
「観月さん」
「こんな所にいたんだ。――皆体育館でドッジボールしてるよ。九十九くんは行かないの?」
「……いいよ。怖いし、痛いのやだし。それにボク、すぐにボールに当たっちゃってつまんないって武田くんが……」
「……そう」
「……」
会話が続かない。毎度のことながらこの状況はとても気まずい。しかし小鳥には、この気の毒な幼なじみを放ってはおけなかった。小鳥は遊馬との会話を今度こそ成立させるべく、話の糸口を探る。
流行りの歌やアイドルの話題は、遊馬とは全く話が合わないのはとうに証明済み。今日の授業内容についての話は、弱気な彼を更に落ち込ませてしまう。家族ネタ……禁句しかない話題を誰が口に出せるものか。
困り果てた末に、小鳥は遊馬が手元に抱えている物にようやく気がついた。
遊馬が読んでいたのは、かわいい絵柄で帆船や人形たちが描かれた厚い本。学校の図書館のラベルが貼られたそれは、まだそれほどページが進んでいない。小鳥は遊馬の傍に立ち、身体を少し曲げてページを覗き込む。
「本、好きなんだ」
「うん。だって、本はボクを痛がらせたりなんかしないもの」
笑顔らしき表情をぎこちなく作り、遊馬はページをまた一枚めくった。
「……あ」
突然、彼は笑顔を曇らせ、急いでページをめくる。一ページ、また一ページ、もどかしくなったのか今度はページをまとめて。終いにはしおりを挟まれることなくぱたんと閉じられる。そうやって彼はやっと安心する。
小鳥の位置からも、ページの内容はちらほら見えていた。孤児院暮らしの女の子が、兄のような存在と信頼する先生と引き離され、彼らからの便りも意地悪な先生に焼き捨てられ。ある日の朝、生きる力を失くしたその女の子が文字通り人形になってしまったというくだりだった。女の子だった人形を雑巾にしてしまえ、と意地悪な先生が叫ぶ場面から先は、遊馬の手によって物語が途切れてしまっている。
「……でも、次はもうちょっと別な本にしなくちゃ」
小鳥は首を振って去って行った。彼女の後ろ姿をぼんやりした目で見送った遊馬は、閉じた本を膝に抱えて深い深いため息をつく。
「――中途半端に構うくらいなら、いっそ最初から放っておいて欲しかったのに」
本の続きを読む気には到底ならない。しかし、暇潰しの手段を失った今、どうやって授業ぎりぎりまでここで過ごせばいいのか分からない。
果てしなく長い昼休みがじわじわと遊馬に圧し掛かろうとしていた。
勇気のいる行動を起こすのが怖い。未知の物や場所が怖い。周囲の人間全てが怖い。遊馬には何もかもが恐怖の対象だった。
跳び箱やプールへの飛び込みは、失敗すれば大ケガだ。デュエルで相手にカードを伏せられると、どんなトラップか分からないから手が出せない。誰かと話そうにも、変な発言をして相手に拒絶されるのは目に見えている。
現実だけではない。例えそれが物語の出来事だったとしても、登場人物が苦しんでいる場面に差し掛かるとすぐに物語から逃げ出してしまう。どんなに大事な場面でも、場面を飛ばしてその後の話の筋が分からなくなったとしても。
遊馬と違ってどんなことにもチャレンジする父親は、しばしば深い傷を負って帰って来た。無謀とも言える彼の言動は、遊馬をやきもきさせたものだった。そしてとうとう、何度目かのチャレンジの最中に遊馬の母親共々行方不明になってしまった。
掛け替えのない家族の喪失から遊馬は学んだ。わざわざ危険を冒す真似をしなければ、痛い思いも怖い思いもしなくて済む、と。
「九十九くん」
校舎裏の隅っこでうずくまるように座り込んでいた遊馬に、突然誰かが声を掛けてきた。
一瞬びくりと身体を震わせ、恐る恐る声のした方を見上げる遊馬。それが小鳥であることを知ると、今の態度を取り繕うかのように彼は曖昧な笑顔を浮かべる。
「観月さん」
「こんな所にいたんだ。――皆体育館でドッジボールしてるよ。九十九くんは行かないの?」
「……いいよ。怖いし、痛いのやだし。それにボク、すぐにボールに当たっちゃってつまんないって武田くんが……」
「……そう」
「……」
会話が続かない。毎度のことながらこの状況はとても気まずい。しかし小鳥には、この気の毒な幼なじみを放ってはおけなかった。小鳥は遊馬との会話を今度こそ成立させるべく、話の糸口を探る。
流行りの歌やアイドルの話題は、遊馬とは全く話が合わないのはとうに証明済み。今日の授業内容についての話は、弱気な彼を更に落ち込ませてしまう。家族ネタ……禁句しかない話題を誰が口に出せるものか。
困り果てた末に、小鳥は遊馬が手元に抱えている物にようやく気がついた。
遊馬が読んでいたのは、かわいい絵柄で帆船や人形たちが描かれた厚い本。学校の図書館のラベルが貼られたそれは、まだそれほどページが進んでいない。小鳥は遊馬の傍に立ち、身体を少し曲げてページを覗き込む。
「本、好きなんだ」
「うん。だって、本はボクを痛がらせたりなんかしないもの」
笑顔らしき表情をぎこちなく作り、遊馬はページをまた一枚めくった。
「……あ」
突然、彼は笑顔を曇らせ、急いでページをめくる。一ページ、また一ページ、もどかしくなったのか今度はページをまとめて。終いにはしおりを挟まれることなくぱたんと閉じられる。そうやって彼はやっと安心する。
小鳥の位置からも、ページの内容はちらほら見えていた。孤児院暮らしの女の子が、兄のような存在と信頼する先生と引き離され、彼らからの便りも意地悪な先生に焼き捨てられ。ある日の朝、生きる力を失くしたその女の子が文字通り人形になってしまったというくだりだった。女の子だった人形を雑巾にしてしまえ、と意地悪な先生が叫ぶ場面から先は、遊馬の手によって物語が途切れてしまっている。
「……でも、次はもうちょっと別な本にしなくちゃ」
小鳥は首を振って去って行った。彼女の後ろ姿をぼんやりした目で見送った遊馬は、閉じた本を膝に抱えて深い深いため息をつく。
「――中途半端に構うくらいなら、いっそ最初から放っておいて欲しかったのに」
本の続きを読む気には到底ならない。しかし、暇潰しの手段を失った今、どうやって授業ぎりぎりまでここで過ごせばいいのか分からない。
果てしなく長い昼休みがじわじわと遊馬に圧し掛かろうとしていた。
勇気のいる行動を起こすのが怖い。未知の物や場所が怖い。周囲の人間全てが怖い。遊馬には何もかもが恐怖の対象だった。
跳び箱やプールへの飛び込みは、失敗すれば大ケガだ。デュエルで相手にカードを伏せられると、どんなトラップか分からないから手が出せない。誰かと話そうにも、変な発言をして相手に拒絶されるのは目に見えている。
現実だけではない。例えそれが物語の出来事だったとしても、登場人物が苦しんでいる場面に差し掛かるとすぐに物語から逃げ出してしまう。どんなに大事な場面でも、場面を飛ばしてその後の話の筋が分からなくなったとしても。
遊馬と違ってどんなことにもチャレンジする父親は、しばしば深い傷を負って帰って来た。無謀とも言える彼の言動は、遊馬をやきもきさせたものだった。そしてとうとう、何度目かのチャレンジの最中に遊馬の母親共々行方不明になってしまった。
掛け替えのない家族の喪失から遊馬は学んだ。わざわざ危険を冒す真似をしなければ、痛い思いも怖い思いもしなくて済む、と。