いつか、その日まで【独普】
例えば、真っ白い天井に点々と滲むシミの広がりが壁を伝って侵食してくるかもしれない恐れ。
なかなかに手の届かない其処の掃除なぞ毎日出来る訳でもなく、日々の手入れが行き届いているとは言えない場所から崩落してしまうのが判っていながら、行動を起こす気になれない気怠い感情を何と呼べば良いのか。嗚呼それは。
後頭部を乗せたバスタブの縁の、何とも言いがたい心地良さに瞼を細めながら考えた。
取り留めの無い事を真剣に考えてしまう馬鹿馬鹿しい時間が妙に似合う、そう思いながら温いお湯に浸かるのは悪くはない。
大の男が手足を伸ばす事は出来ないが、足を抱える程でもない微妙な手狭さが開放感とは違った安心感を生むのを知ったのは最近だった。尤も、毎日のように湯を張るような習慣は昔も今もこの国には無いが。
さて、上がるか。
体が温まった感覚に体を起き上がらせ、足を底へと着ける。液体の質量から抜け出るのは存外に力が必要で、自分で心地良さを引き剥がさなくてはいけないような感触がした。まぁ、誰かに聞かせた事のない言葉だからこれから先も言う事は無いだろう。バカにされるのがオチだと知っている。
瞬間の、倒錯めいた貧血感が苦手だった。
体中の水分がバスタブのお湯と一緒に流れ出ようとしてるんじゃないかと思ってしまいそうになる、それ。立ち上がるのを阻まれている感覚。
慌てて明るい白の床へと足を踏み出す。幾何学模様が描かれたクッションフロアの其処へ無造作に置いたマットが足の裏に触れて、きちんと立っている感触を思うのだから俺も相当な変わり者だと自覚はしていた。
天井と同じ色をした床に、ぽたぽたと水滴が落ちる音がする。
シャワーカーテン用に天井からぶら下がってるカーテンレールに引っ掛けておいたタオルを引っ張りながら足元を覗けば、点々と赤いシミが広がっているのが見えた。
ぽと、ぽと。
水滴の着地する音。――――――――
「ヴェスト、お湯張ったから入っちまえよ?」
ノックをする必要もなく、お仕事真っ最中の弟にしては珍しくも扉が開いていた。
階段のすぐ隣りに位置する部屋は奥の壁を窓が占め、扉の近くにキングサイズのベッドが置かれている。ベッドと窓に挟まれた隅には仕事用と呼ぶには些か家庭的な机が置いてあって、シンプルな部屋が散らかる事は滅多に無かった。
壁に埋め込んであるワードローブ、通路側の壁に釘を打ち込んで自分で作っちまった手製の棚に並んでいる本が男のプライベートを語って、尚更に物が少なく思える。
背中しか見えない弟へ、慣れた呼び名で声を掛けた。
「嗚呼、判った」
集中の途切れない低い声が、書類から離れない視線で背中を追ってくる。
さて、あの分では無理だろうか。冷めた湯に入らせちまうのも可哀想だから、勿体無いが栓を抜いちまおうか。
そんな事を考えながら、頭から被ったタオルで濡れた髪を拭い、顔を拭いながらリビングへと下りていこうとした音でも聞いたのだろう。入れ替わるように通路を歩く長身の男の影が頭上から落ちてきて、珍しさを思った。反射的に顔を上げる。
人の眸の虹彩に名前を付けるのは難しい。そこまで語彙が多い訳でもないし、感情の抱き具合、光の当たり具合で大分印象が変わってしまうそれだ。綺麗の一言で済ませちまえば良いと翌々思った。
昔に見た、インディコライトに似ている。熱処理を加える前の、青み掛かった碧。ゆっくりと見開いていくそれに、俺が映っているのかと思うと口角が上がった。
どうした?
声が出る前に遮る、大きな手。
「兄さんっ」
駆け足で下りてくる、体躯に似合わない可愛らしい動きに首を傾げようとすると、それさえ阻んで頭が固定された。両手でがっしりと掴む、何とも居心地の悪いそれは無意識だろう、随分と力が込められていてコメカミが痛い。
慌てた表情が息の触れそうな距離にあって、けれどタオルで顔の半分を覆っている所為で実際に触れる事は無かった。どうした、ヴェスト?小さく掛けると、眉間に皺を寄せた愛する弟の表情が更に曇る。溜息。
「お前って奴は…」
「何なんだよ、どうした?」
お兄様に向って、そんな呆れた顔をするもんじゃありません。
どこぞの貴族を真似て言ってやろうとすれば、またまた遮った男の両手が漸く頭から離れた。額に張り付く短い前髪がタオルに引っ掛かって、不快感。タオルに触れようと手を伸ばす前に「動くな」の一喝が下りる。
さて、その次は?
訳が解らないと表情で伝えてやれば、逞しい二の腕が背中へ回ったのが分かった。お飾りとは程遠い理想的な実用筋肉に一瞬羨ましさを浮かべたのは内緒で、何だ何だ、スキンシップのおねだりか、と笑えば足裏にも背中と同様、もう片方の腕が触れる。
「ぇ、待っ、」
膝の裏へ下りながら、的確な場所を探し終えた腕が引き上げられたのが判る。その所為で体が横に倒れて、浮遊感に頭がグラついた。
分かる。これは横抱きとか言われてはいるが、つまりはお姫様抱っこと言うやつだ。
「ヴェスト!」
「鼻血垂らして歩くお前が悪い!」
だからってお兄様に何ていう仕打ちをしているか判ってるのかコンチクショウ。いくらお前の方が体格良くて力が強くなろうとも、それでも。嗚呼、嫌な泣き言が出て来そうになってるじゃないか。
「…床は汚してねぇ」
「タオルが真っ赤だろ!床なんかの問題じゃない!」
一言言えば二言を返される。
広いとは言いがたい階段を器用に下りてリビングへ。壁に背を付けたソファに俺を下ろした男は、また階段を上っていったようだった。大分住み慣れたメゾネットタイプだが、やはり縦長の作りに必要不可欠の階段が、妙に邪魔だと思わない訳でもない。
何と無く古ぼけた明かりを思わせるオレンジ色の照明、映し出される天井を眺めていると足音が近くまで来ていた。困惑のそれは俺にだけ見せる、男の弱さだ。
似合わなく、妙に愛おしい。
「上ばかり見るな、気道に入って咽るぞ。血は飲むなよ?それと…」
「やけに詳しいじゃねぇか?本に書いてあったか?」
茶化すな。
真剣味を帯びた双眸が近付く。刻まれた眉間の皺が痛々しく生々しく、唇に嘲笑が浮かんだ。もっとも、赤い斑模様になってしまったタオルに隠れて見えはしないだろう。
錆びた鉛の味がする。
「何処か痛い所はあるか?」
凍えた指先が耳元を撫ぜて、タオルを避けながら首筋を下りた。俺の体温が上がっているのか、ヴェストが冷たいのか判らない。風呂上りの俺の所為だと思いたいのに、心配した弟の緊張が隠されもせずに伝わってくるから厄介だとも思った。
痛いのは何処だろうな。胸中で、俺にだけ嘯く。
悪いのは俺だろう、な。
「…否、国に何かあった訳では無さそうだし大丈夫だろ。久し振りに湯なんか浸かったからのぼせたんじゃね?」
元から上まできっちりボタンを掛けたりはしていなかった襟元を緩めながら、さっき上で濡らして来たのだろうハンドタオルが首から胸を何度か往復した。
皮膚の固くなった無骨さが見た目の年齢に似合わず、それでも爪の綺麗さだとか節だった長い指だとか、何でも掴めそうな大きな手の平が男を構成するパーツであって嬉しいと思う。
作品名:いつか、その日まで【独普】 作家名:シント