満たされた腹を知らず
そういう日々をしばらく繰り返したある日、唐突にロマーノは「戻ってきた」。
「ろま」
最早習慣と化した自分の腹へのおやすみの挨拶をもちろんその晩も済ませてスペインがベッドに横たわった翌朝、スペインの横にはロマーノの姿があった。
「ロマーノ」
自分の傍らに横たわるロマーノにことんとスペインの言葉が落ちた。ロマーノは既に目覚めていたようだったがスペインが目覚めたことを察して身を起こし、少し辺りを見回したあとスペインを見上げた。
「……かえってきたぞ」
眠る時にいつも彼自身でそうしているように、また彼が消えた晩もそうだったように、ロマーノは裸だった。それはあたかも生まれる赤子が一糸まとわぬ格好をしていることの再現のようだった。
ロマーノの見た目に特に以前と変わったところは無かった。年格好も前と同じままである。いや、一箇所だけ変化した所があった。瞳だ。以前は砂糖を煮詰めたような茶色をしていたその眼が、若葉色と茶色を混ぜ込んで作ったビー玉のようになっていた。
スペインは自分の気持ちが分からなかった。嬉しいのかそうでないのか。何となく残念な気もしたが、単純にまたロマーノと触れ合えることが嬉しい気もした。
何を言うか少しだけ迷って、結局ロマーノに普通の返事をするという当たり障りのない選択肢を選んだ。
「……そうやね」
「……おはよう」
「……おはよう」
「……腹へった、飯作れ」
「はいはい」
***
晴天。屋敷の庭先でスペインはぱしんと濡れたシーツを広げながら言った。
「俺、ロマのおかんってことになるんかなあ」
「んな訳ねーだろちくしょうめ」
よたよたと危なげに洗濯物のかごを持ちながらロマーノはいつもの小生意気な口調でそう言った。「ああもう貸しい」とスペインはかごをひょいっと取り上げた。ぱしん、ぱしん、と小気味良い音を立てて洗濯物を広げては、スペインは紐にそれらを吊り下げていく。今日の日光は濡れた洗濯物越しでも十分眩しい。それほどの晴天だった。
ロマーノが戻った。その報告にスペインの上司はいい顔をしなかった。ロマーノの目覚めを「確立した支配の揺らぎ」と見たからだ。
上司のみならず、人は彼らに自国の現在を求める。現状を見出す。その認識は時に正しく、時に間違いだ。
「俺ん中やないなら、ロマはどこにおったん?」
スペインはふと思い出した上司の反応をああそういえばそうやったなあ程度の感想で流し、フランスとプロイセンとオーストリアに知らせなあかんなあということも一旦流して、ロマーノに質問した。ロマーノは笑いもせず馬鹿にすることもなく、真摯に考え込んでスペインに答えた。
「どこにいるのかは分からなかったけど、お前が喋ってることと思ってること、何となく全部聞こえてた」
「ええっそれ恥ずかしいわあ」
スペインはまるで初な乙女のように頬に手を当ててきゃーっと首を横に振った。そんなスペインを今度はロマーノは冷め半分呆れ半分で見た。スペインはそんなロマーノを気にした風もなく―――いや、気付かないだけだろう―――頬から手を離して再びロマーノに聞いた。
「赤ん坊にはおかんの見てるものとか聞いてるものが伝わるっていうしなあ。やっぱりロマ親分の腹ん中におったんとちゃう?」
「んな訳ねーだろ」
ロマーノはきっぱりと言い捨てる。スペインはさらに言い募った。
「でも、じゃあおらへん間はどんな気分やったん? 親分に教えたって」
スペインは「初めてのおつかいはどうだった?」と昔聞いたのと変わらない調子で優しくロマーノに聞いた。
そしてロマーノも特にそれを気にすることはなく、適当な言葉を探しているのだろう、無意味に手を遊ばせながらたどたどしく答えた。
「あったかいところで眠ってるみたいだった。ずっと昔、ヴェネチアーノと一緒に爺ちゃんに声をかけられる寸前が、あんな気分だったと思う」
スペインは考える。自分達というものが目覚める直前の心持ちだとでも言うのだろうか。
心地良くて温かい眠り。しかし己を求める声も同じぐらいに心地良かった。そしてその声の聞こえる方はもっと明るくてもっと心地良いかもしれないと手を伸ばして瞼を押し開けた、あの日。
わたしたちは望まれてうまれる。雌雄に分かれて生まれる理由は分からずとも、それはただ一つの真実だった。
「そのままでおりたかった?」
ロマーノはスペインを見上げた。スペインも手を止めてロマーノを見ていた。
「分かんねえ」
多分間は一瞬だったのだと思う。ロマーノはただありのままを伝えた。
ロマーノには真意が分からない。スペインの指す日が遠い昔のことであるのか昨日までのことであるのか、ロマーノには分からなかった。分からないままに答えた。そこまで考えることもしなかった。
かち合う緑は黙して何も語らない。
スペインはにこりと笑った。
「そんなら嬉しいわ。親分も分からへんから」
そしてスペインはロマーノから目を離して再びかごに手を伸ばした。洗濯物をさっきまでと同じようにぱしんと広げて紐に吊るす。もう一度かごを覗き込んで、スペインはそこに洗濯物が残っていないことに気が付いた。
さて、と呟いてスペインはかごを小脇に抱えた。そしてもう片方の手をロマーノの方に伸ばして笑って言う。
「おいで、ロマーノ」
ロマーノはしばらく黙った後スペインの手を握った。このぐらいのスキンシップなら近頃のロマーノは受け入れるようになっていたのだ。ロマーノはしかめっ面をして、しかし握られた手に力を込めてスペインの手を握り返した。二人は並んで家の中に入っていった。
繋がれた二人の手だけが世界であるようだった。
END.
作品名:満たされた腹を知らず 作家名:あかり