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愛しき者へ

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深更──
 古い石造りの壁に囲まれた室内はひっそりと静まり返っていた。
 明かりといえば小さな火がわずかに灯るだけの薄暗い室内で、少し癖のある黒髪の男が一人静かに寝台に横たわっていた。辛うじてまだ息はあるものの、既に力尽きたのか、身じろぎひとつせず、間もなく訪れるであろうその時をただじっと待っている様だった。
 面差しにはもはや昔日の面影なく、一目見ただけでは誰とも見分けがつかない程やつれ変わり果てていたが、それは古代地中海の覇者、ローマ帝国の化身、人としての名はアウルスと言った──その人だった。全盛時を知るものにはにわかには信じられない程、彼はその姿を変えてしまった。
 若き神のごとく、力と命の輝きに溢れ、ギリシャ彫刻のように美しく鍛え抜いた肉体。西に東に、北に南にと、休むことを知らず、常に最前線に立って戦いに明け暮れた故に、美しく艶やかな小麦色に焼けた肌。黒い瞳は燃え上る情熱に輝き、あごに残る無精ひげでさえ、彼の男らしさを引き立てるスパイスだった。
 音楽と芸術の都ギリシャを侍らせ、知性と教養を愛する一方、爛熟した退廃的な文化をも思うさま楽しみ、人の肉体の力を最大限に発揮する荒々しい競技や武術を好み、命懸けの闘いを愛した。また地味豊かで高い技術力を持つエジプトを従え、荒々しいガリア人、ヒスパニア人をも打ち破って自らの前に跪かせた。
 北はブリタニアから南はエジプトまで、西はヒスパニアから東は黒海に至るまで、地中海をぐるりと囲む広大な地を支配し、彼の海を『我らが海』とまで呼んだ一大帝国、それが最盛期のローマ帝国だった。
 だが今や在りし日の面影はなく、見守る者すらほとんどいない薄暗い静かな部屋の中で、ローマ帝国の化身、アウルスは一人静かに終焉の時を迎えようとしていた。
 ただ一人枕元にひっそりと付き添うのは、すらりと背が高く、白い肌に地中海の空のように青い瞳、黄金の長く艶やかな髪もきらきらしく、見るからに逞しく力にあふれた若い男だった。しかしその顔に浮かぶ表情は乏しく、口元もむっつりと引き結び、目の前に横たわる黒髪の男のことを一体どう思っているのか、何を思い、彼にじっと付き添っているのか、その心中は計り知れないものがあった。
 だが長年の宿敵であると同時に、無二の親友でもあったアウルスには全て分かっていたのだろう。
「……そんな顔をするな、ヘルマン」
 苦しい息の下から、アウルスがささやくような声でそう語りかけた。
「……」
 ヘルマン、と呼ばれた金髪の男の肩がぴくり、と微かに震えた。だが呼びかけられてもなお、男は答えなかった。
「これも時の流れ……運命って奴だ。……それともあれか、気まぐれな神が俺を欲しがって、天から呼んだかな」ハハ……冗談ともなくそう言うとアウルスは力なく笑った。
 本人は笑って見せたつもりだったが、傍から見る限りは、青ざめた顔の、これもまた紫のかった色でひび割れ乾いた唇の隅が、ほんのわずかにひきつったように見えただけだった。
「つまらん事を言うな」
 口元を真一文字に引き結んで、じっとアウルスを見詰めていたヘルマンが、ようやくぼそりと口を開いた。眉間には深い縦皺を刻み、少し細めた目元が微かに震えている。
 アウルスは笑うのをやめ、突然真面目な顔つきになると、ヘルマンの青い瞳をぐいっと覗き込んだ。
「お前の……せいじゃない」
 いつも愛嬌に溢れて、くるくるとよく動く男の黒い瞳が揺れて、目尻から一筋の涙が溢れ、流れ落ちた。どんな辛いことがあろうと、歯を食いしばって耐え抜き、全てを乗り越えてきたこの男が、初めて見せた涙だった。
「な、何を言ってる!俺は──」
 無表情だったヘルマンが初めて動揺を見せた。拳をきつく握りしめながら眉を吊り上げ、声を荒げた。
「ああ……分かってるさ。分かっているとも……」
 今にも消え入りそうな声が答えた。
「俺の……手を取ってくれないか、ヘルマン」もう自分では動かせないんだ──囁くような声を聞いて、あわてて上掛けの下にあるアウルスの痩せた手を取った。
 青白く削げ落ちた頬、ひび割れた唇、落ち窪んだ眼架……どれほどの戦いでも疲れを知らず、不敗の帝王として世界に君臨した昔日のアウルスとは、何と懸け離れた姿になってしまったのか。かつての栄光に包まれたローマ帝国の化身、光り輝くアウルスは一体どこへ行ってしまったのか。なぜこんなことになってしまったのかと激しく胸が痛んだが、ヘルマンはそんな気持ちを口に出して伝えたり、表情に表すことは苦手だった。
 自分の本当の気持ちを愛するものに伝えたいと思うのは誰にだって自然なことだ。だが、どうすれば彼にそれが伝えられるのかヘルマンには分からなかった。端から見れば、彼がアウルスを想ってそのように苦しんでいるようにはとても見えなかっただろう。
 二人は出会った時から闘いを宿命づけられていた。長い歴史の中で幾度となく、互いの存亡を賭けて火花を散らす激戦を繰り広げてきた。遙かな歳月を越えて、繰り返す闘いの中にあって、二人は他の者にはおそらく永久に理解し得ないであろう深い絆を育んでいた。命がけで戦った男と男の間にしか生まれ得ない、単なる友情をも超えた、分かち難い魂の絆と呼んでもいいかもしれない。
 元々相手を倒すことが目的ではなかった。戦いの果てた時には、手を携えて共に生きていくことを考えたこともあった。それぞれの民たちの中には、互いに行き来して親交を深める者もいた。行政もそれを咎めだてすることはなかったし、むしろ振興していた位だ。だがゲルマンの民たちの中には、ローマの民と結ぶことを良しとせず、伝統的な生き方を頑なに守ろうとする者も多かった。

 やがて時が流れ、誰も思っても見なかったその日がついに訪れた。飛ぶ鳥も落とす勢いで進撃し、永遠とも思われる繁栄を享受してきたローマ帝国の終焉の密やかな始まりだった。
 最初はごく注意深い者だけが何かが変わろうとする微かな兆しを感じる程度でしかなかったが、次第にその凋落が誰の目にも明らかになっていった。
 拮抗していた力のバランスは失われた。大陸から来襲したフン族に押し出されたゲルマンの民の多くがローマ帝国に一気に乱入し、ローマの民を襲い、街を破壊した。帝国側は最早それを防ぐ力を持たず、ゲルマンの民の多くはそのままそこに住み着き、力を蓄え始めた。
 ローマ帝国自身も内側から徐々に崩壊が進み始めていたのだ。国内は乱れ、四分五裂し、ついには国家としての形を保つことができなくなる運命の日が訪れた。
 だが決して全ての責任をゲルマンの民に押しつける事はできないと、アウルス自身は考えていた。
 富も名誉も栄光もいつまでもこの手にあるものと思っていた。自分でもそれが既に始まっていることに気が付かなかったのだ。アウルスの肉体は病魔に冒されて徐々に侵食が進み、ローマ帝国はいつの間にか空洞化していった。気が付いたときにはもう全て手遅れだった。

「……これは運命なんだ、ヘルマン。だから……お前のせいじゃない。どんなに大きな力を持った国にも、いつかは訪れる定めなんだよ。俺は……それでも……お前を」
作品名:愛しき者へ 作家名:maki