愛しき者へ
終生敵対し続けた一つの大きな民族ゲルマンと、ローマ帝国。だが民の意志とは別のところで二人は分かち難く結ばれていた。単なる親交を越えたその絆は、民たちに真実が知れれば許されないものであったかもしれない。だが、二人は国の化身であると同時にまた心を持つ一人の人間でもあった。二人の結んだ本当の絆が、人には明かすことのできない部分を含むものだったにせよ、誰にも責めることはできないだろう。
「こんな…馬鹿なことが……」ヘルマンは声を詰まらせた
「お前はずっと……俺のライバルで……これから先もずっと、俺と……」無表情だった青い瞳が揺れ、涙が溢れて頬を伝った。
「泣くな……さっきも言ったろう、これは運命なんだ……誰にも変えられない」
わずかに残った力を振り絞って、アウルスはヘルマンの白い手を握りしめた。ヘルマンからすれば、彼の指が微かに自分の手の中で震えたのを感じただけだが、それで充分だった。
「……してる」ひび割れた唇が掠れた吐息のように言葉を紡ごうとした。ヘルマンは慌てて彼の唇に耳を近づけた。
「俺たちの……交わりからは……多くの……が…生まれる……だろう」
「何を、言おうとしている──?」
「それが……俺の……俺たちの…生きた証──」
アウルスの黒い瞳は虚ろになり、ここではない、どこか遠くを見詰めていた。
「俺の時は終わりを告げる……俺の民や…お前の生み出した者たち……そして俺とお前の間に生まれた多くの民が……新しい国を作ろうとしている……それは、骨肉相はむ闘いになるかもしれない……長く国は乱れ…戦さが続き……民は我らを懐かしむだろう……だが、みな我らの……血を受けた者たち──そしていつか…再び………新しい命が──」ああ……と深々と吐息をつくと、黒い瞳に再び光が戻ってきた。
「俺は……今、何を…?」
それはある種の予言とも見て取れたが、ヘルマンはそれについては何も触れなかった。アウルスに残されたわずかな時を乱すことを嫌ったのかもしれない。
「いや……何も。それより、俺にできることはないか?」
「……もう、時が…近い……ようだ。手を……握っていてくれ。最後まで…お前と一緒にいたい……」
ヘルマンは黙ってアウルスの額にキスをすると、既に体温を失いつつあるその手をしっかりと握りしめた。
「俺の…かわいい孫は……どうしてるかなあ……お前にもいたよなあ……それだけが、最後の心…残り…──」
アウルスは疲れたようにゆっくりと目を閉じると、最後の吐息をついた。横たわる姿は見る間にもゆらゆらと揺れ、微かな燐光を散らしながら少しずつ薄れてゆく。
「待て!まだ行くな、アウルス!ローマ帝国!俺を置いて逝くのか──?」
握り締めた手も次第に輪郭を失い、ヘルマンの手の中でじきに薄れ、霞のように消えた。最後にもう一度抱きしめようと慌てて伸ばした手は空を切り、つかんだ物は彼の着ていた上掛け一枚だった。
「どうして……お前は──」
ヘルマンの瞳に写った最後のアウルスの顔は、安らかな微笑みを浮かべていた。その笑顔がヘルマンの胸を鋭く刺し貫いた。
なぜお前は恨み言の一つも言わずに逝ってしまったのか?国として民たちの願いを無視することはできなかったし、彼らが生き延びるためにはローマ帝国への侵入も致し方のないことだった。だが──とヘルマンは思う。お前をそこまで追いつめたのは、他ならぬ俺だ。
何もかも飲み込んで、何もかも受け入れて、全ては運命なのだとお前は言った。お前は自分だけ良い子になろうっていうのか?神の奴にゴマでもすろうっていうのか?そんな人間じゃないだろう、お前ってヤツは!?
俺は……そんなに頼りなかったか?俺はそんなに信頼できなかったのか?俺とお前の絆はそんなものだったのか?
なら、なぜ俺を呼んだ?お前の最後になぜ俺だけを立ち会わせた?それがお前からの最後の意趣返しだというのなら、俺はずっとお前に騙されていたのか?いつものあの愛嬌たっぷりの笑顔の裏に、お前はこんな鋭い刃物を隠していたというのか?最後の最後に俺を切り裂く為に。
主を失った冷たいベッドの上に突っ伏してヘルマンは泣いた。アウルスが最後に着ていたあの上掛けを握りしめて。生まれてから一度もこんな風に誰かの為に泣いたことはなかった。常に戦いの中に身を置いて、近しい者であろうとなかろうと、死など常に身近で、当たり前の出来事だったのに、それがこんなにも辛い事だったなんて──
それは生まれて初めて知った、愛する者を喪う悲しみだった。