帰郷
砂漠の近くの宿屋は、大抵少し建て付けが悪い。風に運ばれた細かい砂が、蝶番の隙間に入り込み、動きを鈍らせているのである。
この宿屋も例外ではなく、ラクシは窓を開ける為に、嫌なきしみを何度も聞いた。
しかし、苦労して押し開けた窓からは、心地よい風が入ってきたので、それもよしとしよう。
伸びてきた髪を攫っていく感覚を楽しみながら、彼女はしばし午後の風を楽しんだ。はたはたと、視界の脇で生成りのカーテンが揺れている。
オアシスの風は、豊かな実りを含んでいる。水の香り、木々の緑、花や果実の甘い匂いと、人々の生活する気配。どれも砂漠にはないものだ。
砂漠の風は、死んで乾いた匂いがする。吹きつけても与えはせず、奪うばかりだ。そんな風の下をかいくぐった旅人にとって、オアシスは本当に楽園なのだ。
風一つを取っても有り難みを感じるなんて、自分も随分「旅人」になったものだ、とラクシは考えた。
故国を出るまでは、砂漠の風も、オアシスの風も知らなかった。
故国に吹く風は季節によって様々だったが、冷たくて寂しい心地がしたものだ。
今でもそうだろうか。離れて久しい故郷に、ぼんやりと心を飛ばす。
果てがない、と思った砂漠の果てを見て、故国の敵を知り、帝国に至り、更には海を越えた大陸にまで渡った。
その長旅を終えた今、今度は仲間を連れて、元来た道を戻り、己の故国に行かんとしているのが、ラクシにはこそばゆく思える。
死ぬつもりはなかったけれど、生きて帰れるとも知れなかった。仲間との別れも、一度は覚悟したものだ。それが、全て上手く行き、誰も欠ける事なく、また共にいられる。
嬉しかったが、気が抜けるような心地でもあった。
いや、実際に、気は抜けていた。
常に肩の辺りにあった重責感がなくなり、そんなに肩肘を張らなくても良いような気がする。
信頼できる仲間に囲まれて、差し当たりの身の危険もない。向かう先は故国で、愛する兄と母にも会える。
足首の枷が外れたような、解放感がある。
しかし、心の沸き立つような感覚と共に、どこかにゆらぐような不安があった。
それは、彼女が「彼女」として生きる事を受け入れてしまったからで、恋する幸せを手に入れてしまったゆえである。
ラクシは、自分が弱くなったような気がしてならない。
外にも内にも「男」という壁を築き、自分をかくまってきたのだけれど、今ではもう、男になりきって振る舞う事は出来ないだろう。
仲間への口調や態度を、今更改める事は出来ないのだけれど、それは心底男になりたいと願っていた、今までの自分とは違うのだ。
この心に気付いてしまったから。人を恋しいと願う想いを、知ってしまったから。
もちろん、自分の心を否定するつもりはない。
この想いを認めるまで、随分と遠回りをしたし、お互いに苦しんだ。
もうあのような想いをしたくないし、彼にもして欲しくはなかった。
ティーエの隣にいると、心が安らぐのは本当なのだ。
だが、この想いが自分の弱点になっていることも、自覚せざるを得ないのだ。
本当は、前からずっとそうであって、今も昔も、彼を失う事を恐れていたのだと思う。
しかし、自覚するのとしないのとでは、やはり、色々と違ってもくる。
自分はまだ剣が握れるのだろうか、と考える。
恐らくは大丈夫であろう。剣がなくては、自分の身を、彼を守る事が出来ない。砂漠はそこまで甘い場所ではない。
だが、故郷に着いたら?
新しい生活を始めたら?
いつまで剣を振るえるのだろうか、とラクシは思う。
初めて会った時から、ティーエは彼女が剣を使うのを嫌がっていた。それは、彼が人を傷つける事を厭うからだ。
出来れば彼女だってそんな事をしたくはないが、現実は非情だから、剣を握る事をやめはしなかった。
これからは、平和な時代が来るのだろうか。
先の事はまだ何も分からない。故国の状況も知れないし、自分たちが混ざる事で、また新たな波紋が広がるのかも知れない。
そんな事を考えても仕方のないのだけれど、その未来に、剣を持たない自分もあるのだろうか。
剣を使わずに、彼女は強さを保てるのだろうか。
ローダビアに一人捕らえられた時の、無力感と恐怖を、ラクシは忘れる事は出来ない。
何も出来ないまま、助けを待っているのは嫌だ。
剣を捨てて、守られる存在になる事は、恐ろしかった。
このまま「女」になってしまうのは、ラクシにとっては恐怖でもあった。
マンレイドは、どうしてああも強いのだろうか。
共に旅してきた彼女の、慈愛に満ちた笑みを思い浮かべる。
マンレイドの腹には、新しい命が宿っている。
彼女は、ラクシの故郷で赤ちゃんを産んで育てるのだ、と笑っていた。
元は女子騎士団を取りまとめ、男をも泣かせる腕を持つ彼女は、しかしどこまでも「女」である。
マンレイドは女を捨てた事がないのに強く、女である事を恐れていない。
どうしたら、あのように笑えるのだろうか。
姉のようにも慕っている彼女を、自然と、ラクシは手本のように見ている。
彼女の内にある柔と剛が、どうやって成し得ているのか、知りたいと切に思うのだが、まだ踏み込む勇気が持てない。
彼女のようになれるか、自信がない。ただの弱い生き物になってしまうような気がしてならない。
ラクシは、もどかしく溜め息を吐いた。
気がつけば、随分と日が傾いている。
そんなにも考えに耽っていたのか、と我ながら些か呆れてしまう。
橙色に色付きはじめた町並みを見下ろしていると、ふと、肩に重みを感じた。
「風が冷たくなってきましたよ」
品(しな)の良い上着が掛けられている。いつの間にやってきたのか、ティーエが傍らにいた。
なれない女扱いに、反射的に突き返しそうになってしまうが、一瞬の後、ラクシは強ばった肩の力を抜いた。
突き返したら、ティーエは戸惑うだろう。あの美しい顔が自分のせいで歪むのは、嫌だ。
たかが上着を借りただけなのだし、過剰反応だと思い直す。
第一、彼らは一応「恋人同士」なのだ。ティーエが彼女を気遣って、上着を差し出すのを、拒否する謂れはない。
しかし、彼はいつの間にこんな気遣いを覚えたのだろう?
ありがとう、と頬が火照るのを抑えながら礼を言うと、彼は嬉しそうに微笑んだ。
純粋な好意の交流があって、ラクシも、今度は心から笑えた。
心の通じ合ったばかりの二人だから、たどたどしいやり取りの繰り返しだ。
だが、ローダビアを出た頃に比べれば、お互いに慣れてきたようにも思う。
「着いてから、一度も降りてきませんでしたが……何か、考え事をしていたのですか」
「まぁ、ちょっとね」
白磁の額に、憂いの影が走ったのを見て、ラクシは明るく付け足す。
「大した事じゃないんだけどさ。今まで何かとあって時間が取れなかったから」
こんな言葉で言い繕っても、ティーエが相手では何の意味もないのだが。オーラを読み、人の心の声を聞くティーエにとっては、彼女が悩みを抱えていることなど一目同然だろう。
だが、彼はそれ以上の追及をしないで、窓の外に目を向けた。
この宿屋も例外ではなく、ラクシは窓を開ける為に、嫌なきしみを何度も聞いた。
しかし、苦労して押し開けた窓からは、心地よい風が入ってきたので、それもよしとしよう。
伸びてきた髪を攫っていく感覚を楽しみながら、彼女はしばし午後の風を楽しんだ。はたはたと、視界の脇で生成りのカーテンが揺れている。
オアシスの風は、豊かな実りを含んでいる。水の香り、木々の緑、花や果実の甘い匂いと、人々の生活する気配。どれも砂漠にはないものだ。
砂漠の風は、死んで乾いた匂いがする。吹きつけても与えはせず、奪うばかりだ。そんな風の下をかいくぐった旅人にとって、オアシスは本当に楽園なのだ。
風一つを取っても有り難みを感じるなんて、自分も随分「旅人」になったものだ、とラクシは考えた。
故国を出るまでは、砂漠の風も、オアシスの風も知らなかった。
故国に吹く風は季節によって様々だったが、冷たくて寂しい心地がしたものだ。
今でもそうだろうか。離れて久しい故郷に、ぼんやりと心を飛ばす。
果てがない、と思った砂漠の果てを見て、故国の敵を知り、帝国に至り、更には海を越えた大陸にまで渡った。
その長旅を終えた今、今度は仲間を連れて、元来た道を戻り、己の故国に行かんとしているのが、ラクシにはこそばゆく思える。
死ぬつもりはなかったけれど、生きて帰れるとも知れなかった。仲間との別れも、一度は覚悟したものだ。それが、全て上手く行き、誰も欠ける事なく、また共にいられる。
嬉しかったが、気が抜けるような心地でもあった。
いや、実際に、気は抜けていた。
常に肩の辺りにあった重責感がなくなり、そんなに肩肘を張らなくても良いような気がする。
信頼できる仲間に囲まれて、差し当たりの身の危険もない。向かう先は故国で、愛する兄と母にも会える。
足首の枷が外れたような、解放感がある。
しかし、心の沸き立つような感覚と共に、どこかにゆらぐような不安があった。
それは、彼女が「彼女」として生きる事を受け入れてしまったからで、恋する幸せを手に入れてしまったゆえである。
ラクシは、自分が弱くなったような気がしてならない。
外にも内にも「男」という壁を築き、自分をかくまってきたのだけれど、今ではもう、男になりきって振る舞う事は出来ないだろう。
仲間への口調や態度を、今更改める事は出来ないのだけれど、それは心底男になりたいと願っていた、今までの自分とは違うのだ。
この心に気付いてしまったから。人を恋しいと願う想いを、知ってしまったから。
もちろん、自分の心を否定するつもりはない。
この想いを認めるまで、随分と遠回りをしたし、お互いに苦しんだ。
もうあのような想いをしたくないし、彼にもして欲しくはなかった。
ティーエの隣にいると、心が安らぐのは本当なのだ。
だが、この想いが自分の弱点になっていることも、自覚せざるを得ないのだ。
本当は、前からずっとそうであって、今も昔も、彼を失う事を恐れていたのだと思う。
しかし、自覚するのとしないのとでは、やはり、色々と違ってもくる。
自分はまだ剣が握れるのだろうか、と考える。
恐らくは大丈夫であろう。剣がなくては、自分の身を、彼を守る事が出来ない。砂漠はそこまで甘い場所ではない。
だが、故郷に着いたら?
新しい生活を始めたら?
いつまで剣を振るえるのだろうか、とラクシは思う。
初めて会った時から、ティーエは彼女が剣を使うのを嫌がっていた。それは、彼が人を傷つける事を厭うからだ。
出来れば彼女だってそんな事をしたくはないが、現実は非情だから、剣を握る事をやめはしなかった。
これからは、平和な時代が来るのだろうか。
先の事はまだ何も分からない。故国の状況も知れないし、自分たちが混ざる事で、また新たな波紋が広がるのかも知れない。
そんな事を考えても仕方のないのだけれど、その未来に、剣を持たない自分もあるのだろうか。
剣を使わずに、彼女は強さを保てるのだろうか。
ローダビアに一人捕らえられた時の、無力感と恐怖を、ラクシは忘れる事は出来ない。
何も出来ないまま、助けを待っているのは嫌だ。
剣を捨てて、守られる存在になる事は、恐ろしかった。
このまま「女」になってしまうのは、ラクシにとっては恐怖でもあった。
マンレイドは、どうしてああも強いのだろうか。
共に旅してきた彼女の、慈愛に満ちた笑みを思い浮かべる。
マンレイドの腹には、新しい命が宿っている。
彼女は、ラクシの故郷で赤ちゃんを産んで育てるのだ、と笑っていた。
元は女子騎士団を取りまとめ、男をも泣かせる腕を持つ彼女は、しかしどこまでも「女」である。
マンレイドは女を捨てた事がないのに強く、女である事を恐れていない。
どうしたら、あのように笑えるのだろうか。
姉のようにも慕っている彼女を、自然と、ラクシは手本のように見ている。
彼女の内にある柔と剛が、どうやって成し得ているのか、知りたいと切に思うのだが、まだ踏み込む勇気が持てない。
彼女のようになれるか、自信がない。ただの弱い生き物になってしまうような気がしてならない。
ラクシは、もどかしく溜め息を吐いた。
気がつけば、随分と日が傾いている。
そんなにも考えに耽っていたのか、と我ながら些か呆れてしまう。
橙色に色付きはじめた町並みを見下ろしていると、ふと、肩に重みを感じた。
「風が冷たくなってきましたよ」
品(しな)の良い上着が掛けられている。いつの間にやってきたのか、ティーエが傍らにいた。
なれない女扱いに、反射的に突き返しそうになってしまうが、一瞬の後、ラクシは強ばった肩の力を抜いた。
突き返したら、ティーエは戸惑うだろう。あの美しい顔が自分のせいで歪むのは、嫌だ。
たかが上着を借りただけなのだし、過剰反応だと思い直す。
第一、彼らは一応「恋人同士」なのだ。ティーエが彼女を気遣って、上着を差し出すのを、拒否する謂れはない。
しかし、彼はいつの間にこんな気遣いを覚えたのだろう?
ありがとう、と頬が火照るのを抑えながら礼を言うと、彼は嬉しそうに微笑んだ。
純粋な好意の交流があって、ラクシも、今度は心から笑えた。
心の通じ合ったばかりの二人だから、たどたどしいやり取りの繰り返しだ。
だが、ローダビアを出た頃に比べれば、お互いに慣れてきたようにも思う。
「着いてから、一度も降りてきませんでしたが……何か、考え事をしていたのですか」
「まぁ、ちょっとね」
白磁の額に、憂いの影が走ったのを見て、ラクシは明るく付け足す。
「大した事じゃないんだけどさ。今まで何かとあって時間が取れなかったから」
こんな言葉で言い繕っても、ティーエが相手では何の意味もないのだが。オーラを読み、人の心の声を聞くティーエにとっては、彼女が悩みを抱えていることなど一目同然だろう。
だが、彼はそれ以上の追及をしないで、窓の外に目を向けた。