窓辺の乙女
「え、なに、ちょっと嘘、あたし呼んでない、呼んでないわよ、呼んでない……わよね?!うん、最近は寝ぼけて徘徊したりしてないもの、だからだいじょうぶ、だいじょうぶ、たぶん来てるのは小鷹だわ、それをあたしがちょっと見間違えただけで……ってそんなわけないでしょう!ていうかなんであたしが夜空と小鷹を見間違えるのよ、いくらなんでもそんなのありえないわ?!ええ、ありえない……ん?ってことは、じゃあやっぱり、夜空?!なんで?!意味わかんないわよっ!」
「おい、聞こえているぞ」
「ひっ?!」
一度降りた沈黙はそうやすやすと解除されず、焦ることもなかったので夜空は扉の外でじっと待った。ときどきなにかを地面にぶつけたような音やら、木を叩く音やらがしたが、肝心の部屋の主は黙りこくったままである。はじめのうちは状況を楽しまなくもなかったが、日の差し込まない石の廊下はすこしずつ身体の熱を奪っていく。どうせもうしばらくは顔を出さないだろうし、出して自分がいなかったところで間抜け顔を見られない以外の支障はなにもないと踏んだ夜空が一度庭に出て日に当たる算段をしていると、折よくステラが通りかかった。
「夜空さま?このようなところで、いかがなさいました」
「いや、星奈がまだ支度を終えていないと言うのでな」
「それにしても、このような場所で……お待たせして申し訳ございません。私が様子を見て参りますから、夜空さまはひとまずこちらへ」
ステラの言葉が終わるか終わらないかのうちに扉のなかから声がした。
「いま、終わったわ」
視線を向けると、ステラが眉を寄せた目礼をした。それを「星奈さまがご迷惑をおかけしまして」との意味に勝手に取った夜空は鷹揚に頷く。すると相変わらず音もなく動く侍女が軋む扉を開けた。
「星奈さま」
「待たせて悪かったわね、ええと……夜空」
「ああ。悪いが先に座らせてもらうぞ」
「どうぞ」
窓際に立つ星奈は微笑を浮かべている。しかしその指先が小刻みに震えているのを夜空は見逃さなかった。立ち去り際に礼をするステラの隣を通り抜け席に着く。
今度は飲み物は既に用意されていた。
「それで、」
と、よく見れば頬をほんのすこし染めた星奈が不服そうな声を出す。
「なんであんたがここにいるのよ」
「悪いか?」
「悪いわよっ!」
「そうか、なら帰らせてもらおう」
「あ、あたしが呼んだのは小鷹だわ。帰りたいなら帰りなさいよ」
「そうか」
言われたとおり席を立てば、慌てたように窓から駆け寄ってきた。
「ちょ、ちょっと!なんで本当に帰ろうとするのよ?!」
「帰れと言ったのはお前だろう」
「それはただの言葉のあやで……ああ、もう!いいから座りなさい!」
毛を逆立てた猫もかくやという勢いで夜空に迫った星奈は本当に逃げられるとでも思ったのか、掴んだ腕をベッドのほうに引いた。そのまま肩に手を伸ばそうとしたので、慌ててシーツの上に腰かけたものの、なぜか目の前に立ったままの星奈は腰に両手を当てて睨みつけてくる。
「それで、なんで夜空なの」
(青い目、か)
見上げた両の瞳は、夜空の目には浅葱色に見えた。緑の混じったごく薄いブルー。それを青、と表現した小鷹を思ったとき、自然と気持ちが緩んでしまうのを感じた。確かにあの男は話が下手だと思う。だいいち、語彙が少ないのだ。
視線を合わせ続けながらも、見つめる先を星奈が不審がる前に答えてやる。
「借りは返しておこうと思ってな」
「借り?」
「でないと、私も気持ちよく使えない。……毛糸に罪はないからな」
「あれなら、あたしは別にそんなつもりじゃ、あてっ」
どこかから小鷹が見つけてくれた小さな革袋ごと顔面に投げつけてやった。
「開けろ」
「あ、うん……」
意外にも悪態をつくことなく従順に紐を解いた星奈の表情ではなく、なるべく指を見るようにしながらも夜空には彼女の驚きが手に取るようにわかった。中身を取り出す前、一旦覗いた手がわかりやすく止まったのだ。その後おそるおそる袋のなかに伸ばされた指はまたしても震えており、緊張しやすいやつだな、と夜空はすこし可笑しく思った。
磨かれたブローチはなんとか様になるような鈍い輝きを放っている。このぶんだと突き返されることはないだろう、一仕事を終えた気分で夜空が目を上げれば、大きく見開かれた双眸は両手で掲げられたブローチをじっと見つめていた。
「じゃあ、私はこれで」
わけもなくいたたまれなくなって立ち上がった。星奈はまだ呆けたままだったから上手く抜け出せると思ったのに、こんなときばかり傷があるほうの足がなにもないところで躓き、
「ちょ、待ちなさいよ!」
「……なんだ」
「こんな、綺麗な……」
(馬鹿か、こいつは)
「あの、ええと、その……」
ありがとう、とやけに素直な、落ち着いた声。思わず足を止める。
再び沈黙がふたりの間に流れ、結局夜空は踵を返して(ベッドではなく)背もたれのない椅子に腰かけた。楽なふうに足を整えて改めて星奈を睨みつける。
すると俯いたままの彼女は丁寧過ぎるのろのろとした手つきでブローチを袋に戻し、最後にその袋を握りしめたけれど、やがて意を決したように顔を上げた。夜空の眼光に一瞬怯んだらしい瞳を、それでもまっすぐにこちらにむけて。
「ええと、それで」
「なんだ」
「……これ、は、どうしたの?」
同情ではない、と夜空は確信している。同情でも共感でも憐憫でもない。ただ気まぐれが過ぎただけだとあとから理由はつけたものの、口を開いたこのときにはまだ、なにも浮んでいなかった。青い目を逸らしたそうにしながらも見つめる星奈の、唇までがいまは小さく震えている。媚びているのだろうか、と頭をかすめた考えはすぐに消え、代わりに小鷹が浮上した。小鷹はどんなふうに彼女を見ているのだろう。きっと怯えられていない。それなら彼に向けられた瞳の色を、夜空は知らない、ということになる。けれどそれでもかまわなかった。
「これはもともと、母方の叔母のものでな――」