窓辺の乙女
曰く、婚前の乙女がその純潔を穢されるようなことあらば、刀は穢しし者にこの世で味わえるうち最上級の苦痛を伴う緩やかな最期を、乙女には与うる限りもっとも速やかで自覚もなにも伴わない死を与えるのだという。
少なくとも一度は必殺、武器としては上等だ、と小鷹は言っていた。代価として継続して乙女の血が求められるまじないに、いまのところ薄まる気配はない。この年になるまで乙女のままでいる自分を、短刀を与えられたときの夜空は想像してもいなかったのだが。
柔い指に馴染んだ感触は気持ちを落ち着かせる。そうやって朝焼けの空を眺めている夜空の隣に、ふと舞い降りる気配があった。気づかないふりをしてなおも刀柄を弄んでいると、咳払いのあと、
「その、夜空。……昨日は悪かったな」
はじめに名前を呼んでくれた。思わぬ喜びに、こんどは本物の笑顔が浮かぶ。
「私は気にしない。だから小鷹も気にするな」
あいつのことで仲違いをするのも馬鹿らしい、とは流石に言わずにおいた。
手持ち無沙汰のためだけに持ちだされた短刀がお互いの気を散らさないよう、たたみもせずに放り出していた布を取り上げる。と、からからと音がして、なにやら青色が一瞬視界の隅をかすめた。
「……?」
こんな場合、小鷹の行動はやたらと早い。取り上げたそれを開いたばかりのてのひらに載せられて、夜空は思わず頬を赤らめなにかを言おうとしたが、てのひらに宛てられたままの視線に首をかしげることになる。
「小鷹?」
「ああ、いや。お前、こんなの持ってたんだな」
それでやっと彼の目の行方に気づいた夜空が自分の手元に意識を向ければ、古ぼけたオリーブ型のブローチがひとつ転がっていた。埃を拭ってみても色ははっきりとせず濁った青のままで、周りを縁取る金属細工もよくできたものでもない。
けれど、正体に気づいた――思い出した夜空は思わず笑みを浮かべた。昨夜あれだけ苦しめられたくせに、朝の光の下にいるからだろうか、今は昔を容易く操ることの出来る時間だと捉えられる。
勿論小鷹に問われれば、夜空はいつだって喜んで口を開いただろうけれど、今日はなにはなくとも自分から語り出したい気分だった。
「なつかしいな」
呟いた自分の頬には未だ笑顔が残っている。それが心地よくて、声が滑らかに、どこか甘いものになる。
「これはもともと、母方の叔母のものだった。こどもたちにやさしいひとでね、私もすきだったよ。だから彼女の輿入れが決まったときはさんざ泣いたものだ」
「夜空が?」
「私だって泣くさ」
小鷹はやたらと真剣な眼差しで頷いた。
「物心がつくかつかないか、という年頃だったしな。こどもたちを泣き止ませるためか、それとも本来のやさしさからきたのかは知らんが、叔母は装飾品を餞別代わりにひとりにひとつずつ与えようと言い出した。私を含むちいさい子たちに選ばせてね」
「ああ」
「私が選んだのはその硝子玉だった」
改めて見れば、今まで忘れられていたのにひびひとつ入っていないことが不思議だと夜空は思う。小鷹が気づき、話を聞いてくれたという記憶がいままさに上書きされている鈍い青は今更捨て置くにも惜しく、これからはきちんと身につけるつもりだった。
「そうしてあとあと母に見る目がないと呆れられた。今となっては記憶にもないが、たぶんそれなりに高価なものもあったんだろう。あいにく今は選んだ理由すら覚えていないけれど、まあ、ひとつの思い出話だな。……私は小鷹ほど話が上手くない」
「俺だって、話すのは得意じゃないんだが」
「私は小鷹の声がすきだぞ?」
「声かよ!」
(小鷹のことなら、なんでもすきだ)
言外に込めた意味に気づかないのが彼の常である。なので、不興げに眉を顰められても夜空は失望しなかった。汲み取られないとわかっているからこそ口に出来る言葉の気楽さだった。
薄い黄色の朝日はせっかくのぼったそばからまた霧に包まれ、夜空は身を震わせて毛布にくるまりなおす。
「なあ、夜空」
「うん?」
「お前、その話、」
「いやだ」
「……せめて最後まで言わせろよ」
「いやだと言ったらいやだ」
重い吐息が漏れた。
「小鷹。お前はなぜそう無駄なことをする」
「無駄?」
「私とあいつの仲を取り持つなど――」
「そうだな、出過ぎたことだな。けど夜空、」
と、隣の小鷹がふとこちらを向いて、
「お前ら、別に仲悪くもねえだろ」
ためらいなくその言葉を口にした。
「なっ……」
頬に血が上るのを感じる一方で、どこか冷静な夜空は自分を責めていた。その反応では図星のようではないか。私があいつと仲がよいはずなどない。だからいつも通り鼻で笑って、ここから立ち去ってしまえばいい。
けれどどうしてだろう。今までの時間があまりにも心地よすぎたせいか、腕も足もどこかしこも動かないまま、夜空は凍ったように小鷹の隣に座っている。
(あんなやつ、私にとってはどうでもいいはずだ)
星奈を無視できない事実を自分自身から突きつけられているようで、先ほどまでの穏やかな時間からは考えられない、言いようのない不快感が胸の中でざわついた。それすらもあいつのせいだ、と思おうとしたことすら、再び自分へと還ってくる呵責になる。
罪悪感、などというものがあるのだとしたら。
(理由ははっきりしている)
今は寝床の端に敷かれた膝掛け、あの余計な贈り物のせいだ。
「別に、そう難しいことでもないと思うんだが……」
(だとすれば、私に出来るのは)
毛布を羽織ったままでは格好がつかなかったけれど、ゆったりと立ち上がった夜空は胸を張った。笑顔を作り、唖然とする小鷹を見下ろす。
「なら、これをやればいい」
握りしめていた青い石をかざしてみせる。
「私の過去をわざわざあいつに教えてやるなんてまっぴらだ。お前、小鷹になら吝かではないが……」
それに、この偽物はあいつに相応しい。聞こえて欲しいようなそうでないような、中途半端な気持ちで口に出した言葉は小鷹の耳には届かなかった。ようやく安堵したらしい彼は、笑顔を見せるとは行かないまでも唇の端を緩めて返事をした。
「……ッああ、そうだな」
とはいえ未だに夜空が意を翻すのを恐れている急いだ口調にちくりと胸が痛んだ。
「そうと決まればことは早いほうがいいだろう。小鷹、お前次の出頭はいつだ。明後日か?」
「出頭ってなんだよ……明後日で間違いはないが、ステラに通しておこうか?」
「ああ、と言いたいところだが、別に当日急に都合が悪くなってもかまわんさ。面倒なことはしなくていい」
「夜空」
「うん?」
「本当にいいのか?」
「持っていたところで使い道のないものだ」
「思い出の品だろう」
「言い出したくせにやけに拘るな。思い出を語らなければ、ただの古ぼけた装身具でしかないぞ。思い出そのものも古すぎる」
「いや、ならいいんだけど……いい贈り物だと、俺も思う」
「お前がほめる必要はないだろう」
「ひとの語尾を取るな。ほら、青はあいつの目の色だ」
夜空はやけに容易く口にされた台詞が聞こえなかったふりをした。
「夜空ぁっ?!」
目の前で一度は開いた扉が勢い良く閉まった。