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apple blossom

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「ごちそうさま」
 パンパンとズボンをはたいて、カップをベンチの横のごみ箱に捨てに行く。すると、その肩をつかんでその場にまた引き戻される。
「待て、アンディ。お礼は?」
「え? だから、ごちそうさまって……アリガトウ?」
「そうじゃねぇだろ」
 物分りの悪いこどもを見るような目で見て、バジルは言い放つ。
「キスしろ」
 アンディは己の耳を疑った。
(なんだって?)
 バジルが急かす。
「キスだよ、キス。早くしろ」
「え、いやいやいや」
 近付いてくる顔を慌てて手を突き出して遮る。
「街中だし……ってか、おごってくれたんじゃなかったの?」
「何の見返りもなしに誰がおごったりするか」
「いや、それはおごるって言わないでしょ」
「金を使わせたんだから、その分体で返すのが当然だろ」
「それは仕事でしょ。労働だ」
「てめぇはさっきのレポートだって何もしなかったじゃねぇか」
「それはバジルが……ってか、ボクに身売りしろっていうの?」
「800円のお礼にキスなんて安いもんだろ」
 当然といったように言われてさすがに頭に来る。
 ぶんぶんと首を横に振り、にらみつける。
「嫌だ。絶対にしない。誰がするもんか」
「おごってもらっておいてお礼をする気にならねぇのか、失礼な奴だな」
「どっちが失礼だ……! 先にそっちのお礼をするよ? 殴るよ?」
 『いい?』と握った拳を顔の位置にあげる。
 『まぁ待て』とバジルが片手をあげて遮る。
「こんな街中で騒ぐのは得策じゃないだろ。学校に近いし、教師にでも見られたら大変だ」
「う……」
 アンディは言われたことを考え、しぶしぶと拳を下ろす。
 バジルがニッと笑う。挑むような目で見つめて。
「うちに来いよ」
 え……とアンディは戸惑う。
 ケンカをしに家に招かれるとは。
 乗り込むべきか、いやいや、待て。
 バジルが妙に明るく言う。
「養父母ならふたりとも仕事でいないからさ。そこでレポートの仕上げでもやろうぜ。今度はおまえにやってもらう。それでいいだろう、アンディ?」
 問われてアンディは当惑して首を傾げる。
 確かにそれなら……でも。
「……」
「来いよ」
 腕をぐいと引っ張って先に立って歩き出そうとするバジル。
 とりあえずついて行ってみようとするアンディ。
「待て待て待てーっ!!」
「あ……」
 振り向いたアンディは驚きに目を見張る。
「ウォルター」
 走ってきてふたりの前で立ち止まり、ゼェ、ハァ、と息を吐くウォルター。
「捜したんだぞ、アンディ」
 黒いシャツに首元に赤いチェックのストールを巻いてベージュ色のサスペンダーつきチノパンを穿いたウォルターは、キッとバジルをにらんで言う。
「おい、てめぇ、アンディをどこに連れてくつもりだっ!?」
「チッ」
 バジルがいまいましげに舌打ちしてアンディの腕を放す。そしてウォルターに向けて怒鳴った。
「てめぇ、後をつけてやがったな!? 尾行してたんだろ!! このタイミングで現れるとかどんな偶然だ! ありえねぇんだよ!!」
「アンディがあんまり遅いから心配になって迎えに来たんだよ! 捜したって言ってんだろ、必然だ! 悪ィかよっ!?」
「そんなに毎度毎度コイツを捜し出せるのか!? おい、アンディ! おまえGPSか何か持たされてねぇだろうな!? あと、コイツおまえの母ちゃんかっ!?」
「母ちゃん、って……」
 幼馴染みの口から出た言葉の衝撃に呆然となるアンディ。
 ハッと気付いて手を振り払う。
 それを気にする様子もなく、ふたりはいっそう近付いて、角突き合わせる。
「アンディは寮の同室だし、後輩だ!! 勝手に変なとこに連れて行くんじゃねぇよ。あと、GPSなんかじゃねぇ、本当にただの努力の結果だ! 長く一緒にいたから行動がわかるんだ!!」
「ハッ、どうだか。GPSじゃなきゃ盗聴器か何かじゃねぇのか!? apple blossomなんて香水アンディにつけやがって。何が『目の中に入れても痛くないほど可愛がってる』だ。恋人同士か!? 付き合ってんのか、てめぇらは!!」
「え」
 傍で聞いていたアンディがギョッとする。
「……ウォルター?」
 あのフレグランスにそんな意味が秘められていたとは。
 『目に入れても痛くない』をそのまんまの意味でとらえていたアンディはどん引きだ。
 ウォルターがカッとなってバジルに怒鳴り返す。
「ただのイタズラだろーが!! それをそんなふうにとらえるそっちこそ何考えてんだ!」
「恋人アピールの香水じゃねぇか、アレは!! 恋人がいる奴がつけるもんだろ!! コイツにそんなもんベッタリつけて寄越しやがって、誰が誰の恋人だ、コラ!?」
「少なくともおまえじゃねぇ!!」
「唾つけるみたいな汚ねぇ真似しやがって!!」
「汚いのはどっちだ!?」
 ふたりはギリッとにらみ合う。
 過熱するふたりの間で、アンディは不思議そうに首を傾げる。
「……あれ、ウォルターって恋人いたっけ?」
 恋人がいることをアピールする香水をウォルターがつけていたということは、恋人がいるということ。
 バジルがフンと鼻で笑って言う。
「どうせ女避けで使ってるんだろ。自意識過剰なんだよ、てめぇはよ」
「なんだとっ!?」
 ウォルターがバジルの襟をつかもうとして、パシリと手を払いのけられる。
 ますます濃くなる険悪な空気。
「えーと……ちょっとふたりとも……」
 周囲の通行人や店の人の視線が突き刺さって痛い。
 アンディはなんとか止めようと考えた。
 やる気満々のバジルに、カッとなってしまっているウォルター。
 ふたりを止める方法。それなら、引き離すのが一番だと思った。
 ごそごそとバックパックの中から必要な物を取り出し、手に持ってバジルに近付く。
「バジル、目ぇつぶって」
「ああ!?」
 突然……でもないのだが……割って入ったアンディに、ケンカ腰でバジルが応じる。
「こんな状態で目なんかつぶってられるか!! てめぇはバカか、アンディ!?」
「じゃあ、手ぇ出して」
「嫌だ!!」
「じゃあいいや、もう」
 投げやりに言って、アンディはペシッとバジルの額に千円札を叩きつける。
 押し付けたまま、呆然としているバジルに、静かな低い声で言う。
「これでさっきの話は無しで。ボクは帰るよ。ウォルター」
 アンディの行動に呆気にとられて突っ立っていたウォルターが名前を呼ばれてハッとする。
「寮に帰る」
 そんなウォルターにハッキリきっぱりと言う。
 ウォルターの頭を冷やして引き離した方が楽だ、というのがアンディの出した答えだった。
 ついて来なければ、あとはもう知らない。
 どうせわけのわからないケンカなんだし。
 もう帰る。帰ってやる。
「おい、待てよ、アンディ!」
 返事を待たずに背中を向けてスタスタと歩き出したアンディの後ろを慌ててウォルターが追いかけて来る。
「駅、そっちじゃないんだけど!!」
 あ、しまった。
 アンディはピタリと足を止める。
 追いついたウォルターが焦った様子で言う。
「一緒に帰るって。おまえを迎えに来たんだぞ」
「あぁ、そう」
 ふたり並んで歩き出す。
 バジルをひとり残して。