とある午睡
反射的に叩き起こそうと分厚い本を持った右腕を振り上げたところで、アーサーはピタリと動きを止めた。危ない、と胸の内にひとりごちる。なるべく音をさせないように肺に溜めた息を細く吐き出して、右腕もそっともとの位置に戻した。平日の、間もなく三時を回ろうかという頃合いだ。今現在この古い図書館にそう人は多くない。しかしそこここにある人の気配は、決して少ないわけでもない。当然この近くにもいるだろうし、大きな物音をさせては利用者の邪魔になってしまう。だからこそ、アーサーは神聖なる図書館で居眠りを決め込む髭面に制裁を加えることを断念したのであって、罷り間違ってもあまりに気持ち良さそうに眠っているので起こすのが躊躇われた、等ということはない。
昼下がりの穏やかな陽光が射し込む二階の隅の特等席を陣取って、健やかな寝息を立てているのは、数か月前に知り合った男で、名をフランシスといった。男のくせにチャラチャラしていて、いつもやたらと華美な服を着ていて、高慢で人を馬鹿にするのが好きで、実に気まぐれな人間だ。嫌味なまでに顔もスタイルも整っている、総合的に「派手」な男だった。アーサーがお近づきになりたくないと思う人間の要素を過不足なく兼ね備えた男、と言い換えても差し支えない。
はじめて会った時、フランシスは壁に寄りかかり本を読んでいた。アーサーの勤める図書館はかなり歴史があって古い。現在までにあちこち修築を重ねてはきたが、今も建設当時のアンティークな空間を維持している。フランシスはその空間に溶け込んで、否在るべくしてそこに在るといってもいい程、実に自然にそこにいた。
なんて、美しい画だろうと、アーサーは思ったのだ。やりかけの仕事のことをすっかり忘れてその光景に見惚れていると、さすがに視線に気づいたらしい男がアーサーを見た。綺麗な青い星が、アーサーを映して瞬いた。
「、」
その瞬間、はっと我に返って、何を取り繕うこともしないまま、慌ててその場を後にした。カウンターへ戻ると興奮した様子の同僚に話しかけられ、撮影で訪れているというモデルのことを聞かされた。その時一緒に見せられた雑誌の写真の顔が、つい今しがた見かけたものと同じだったのでぎょっとした。随分不躾な視線を送ってしまったと後悔したが、しかしその後悔も、数時間後館内まわりをしていたアーサーの正面から歩いてきた、噂の当人の発言によって吹き飛んでいった。
「あれっ、さっきの眉毛ちゃん!」
「だっ…!」
れが眉毛ちゃんだコラぁ!!と怒鳴り返しそうになったのを、すんでで抑えてアーサーは咳払いした。ここは図書館自分は司書だビークール、と心の中で三回唱えて正面の人物を見やる。
「カークランドといいます」
「冗談だよ、怒んないで。いやあ、雰囲気があってすっごくいい図書館だね。お兄さんはここで働いてるの?司書さん?」
「…そうですけど」
「あ、俺のことは聞いてる?フランシスっていうんだけど」
「はあ、モデルさん、ですよね」
先ほど得たばかりの情報を告げると、そう、とフランシスはにこりと笑った。真顔の時は整い過ぎていて威圧感があるが、こうして笑うと愛嬌のある優しい雰囲気になる。
「もう撮影は終わったんだけど、また来るよ。ここ気にいっちゃった」
あとお兄さんのこともね!とウィンクと共に巫山戯た社交辞令が飛んできたかと思えば、そのすっげえ眉毛とダサい眼鏡は除くけど!と余計な一言をつけ加えてきたので、アーサーは今度こそ躊躇なく渾身のアッパーをお見舞いしてやった。後日本当に再びやって来たフランシスに、顎が腫れてクライアントに怒られたとネチネチ文句を言われたが、アーサーは今でも自分が悪かったとは思っていない。
(――懐かしい。)
あれは、まだ夏のはじめではなかっただろうか。あっという間に季節は巡って、時代に取り残されたようなこの場所にも、世界と同じようにあたたかな春が訪れようとしている。
フランシスは、それから週に一、二度の頻度で図書館にやって来て、アーサーの仕事の邪魔をした。もっぱら手作りだという既製品のような見事な出来のお菓子を手土産に持ってきたので、悪いことばかりでもなかったが、アーサーの心中は複雑だった。
図書館という場所は不思議だ。こうして本に囲まれていると、新しい世界への期待からわけもなく胸が踊る反面、ひどく切なくなってしまう。生きている間に一体どれだけの本を読むことが出来るだろうかと考えると、一生がとても短く感じる。ここにはこんなにたくさんのドアがあって世界があるのに、その半分もくぐることが出来ないのではないかと思うとそら恐ろしくさえあった。知識の海、まだ見ぬ物語、世界の果てしない広がり、その全てにどこかで通じているはずの夢のような場所で、しかしアーサーは時に子どものように途方に暮れてしまう。埃っぽい空気を吸い込んで、夥しい数の本の合間を歩いていると、胸が詰まった。
どこにでも行ける。でも、きっと本当は、どこにも行けないのだろう。全てを知っているのは、全ての言葉をその身に内包しながら物も言わぬ、この古びた建物だけだ。それでもその、切なさのような憧れのような、諦めのような愛しさのような複雑な感情は、プラスにもマイナスにも傾くことなく美しく均衡し、これまで確かに、アーサーは心の安寧を保ってきたのだ。この満たされることのない心の空白と、孤独を、アーサーは愛していた。
そこに、この馬鹿にカラフルな男が入り込んできて、アーサーが守ってきた調和はまず色彩から崩されていった。ほの暗い場所にいることに慣れた目に、フランシスが纏って現れる色は眩し過ぎた。アーサーが出会い頭に、いつも少し瞳を眇めてしまうことを、その意味を、この男は知っていただろうか。
「もーお前地味過ぎ!なんか色入れなさいって!あとその眼鏡ダサいからやめろって何回言ったら分かんの?馬鹿なの?」
「うるっせえな!てめえが派手なだけだろ!!ほっとけよ馬鹿ぁ!!」
そんなやり取りを何度繰り返したか、アーサーは自身のスタイルを崩すつもりはなかったのだが、フランシスが傍にいることで物を選ぶ目が少しずつ変わっていったようにも思う。出会った頃と比べての顕著な変化といえば、フランシスがしつこくダメ出ししてきた眼鏡だ。何を言われても忙しいからと動かなかったアーサーに、ある日フランシスはどこでどう調べたのか知らないが、度数もサイズもぴったりの眼鏡を差し出してきたのだった。この俺が見繕ったんだからね、似合うに決まってる、とはじめさえ恩着せがましい態度だったフランシスは、新しい眼鏡を掛けたアーサーを見ると、一瞬固まった。その反応に、見ろやっぱり似合わないんじゃないかと慌てて眼鏡を外そうとしたアーサーの手に、しかしふわりとフランシスの形のいい手が重なる。
「なにー…、」
「外さないで」
フランシスは馬鹿に真剣な声でそう言って間近でアーサーを見つめると、満足気に頷いて、似合うよ、とやたら素直に笑った。その時細められた目元がひどく優しげだったものだから、いつものような悪態もつけず、ついそのまま受け取ってしまった。