人でなしの恋
それは素性を隠すという意味と、心の奥の情けや欲を隠し、冷静であれ、という意味が込められた仕来たりであった。
覆面は忍びの者の誇りであり、素顔を晒すのはこれ以上ない屈辱である。
サルトビは一度、ガルデンに素顔を見られたことがある。
一瞬のことであったし、過ぎたことは仕方がない。だが二度目、それもこのような状況で覆面を剥がれるのは絶対に御免だった。
ガルデンの腕をどかそうともがくサルトビだったが、握力では叶わないらしくびくとも動かない。
「ッ、ぐ…」
顎を掴まれ正面を向かされる。鼻先が触れ合いそうな程にガルデンの顔が近付き、サルトビは思わず硬直した。
唇に冷笑を浮かべ瞳は暴力的な欲望に爛々と輝いている。
その顔は、敵として憎んだ顔だ。
目的もなく、ただイドロの命令に己の欲望を乗せ、暴虐の限りを尽くした暗黒騎士の顔だ。
ガルデンと初めて会った日が脳裏に蘇る。
自分の故郷が、家が、友人が、父が母が燃えていく。
誰一人、何一つ助けられず逃げる自分を嘲笑った黒いリューの中でも、こんな顔をしていたのだろうか。
恐怖なのか怒りなのか分からぬ感情で体が震える。
その姿にガルデンの口角が一層持ち上がり、素早く覆面の下に人差し指と中指を差し入れ、爪を立てた。
「あ…っ!」
ピピ、と布の裂ける音がして、サルトビの顔が露わになる。
愉快そうに細められたガルデンの眼と視線がぶつかり、恥辱を感じたサルトビは顔を背け唇を噛む。
「無様だな」
蔑まれ、悔しさに顔が熱くなる。
血が集まったことで、以前顔を晒した際に付いた細い傷が薄赤く浮かび上がった。「私が憎いか、サルトビ」
傷跡を指の背でなぞられ、びくりと頬が痙攣する。
再び息が掛かるほど顔が近付き、ガルデン低く囁く。
「憎いなら、殺してみろ」
ゆっくりと、サルトビがガルデンを見た。
「…殺さない」
絞り出すようにサルトビが呟く。
「ガルデン、俺はお前を殺さない」
静かな、しかしはっきりとした口調でサルトビが告げた。
先程までガルデンの手で好きなように蹂躙されていた少年と同一人物とは思えぬ、冷静で確固たる意志を秘めた瞳をしていた。
「そうか」
ガルデンは笑みを消し、すっと上体を起こした。
やっと解放された、とサルトビは安堵し引き裂かれた覆面で顔を隠す。
ガルデンは自分の額当てと鎧を外すと、サルトビを見降ろし唇を歪めた。
「ならば犯すまでだ」
覆面を押さえる細い手首は呆気なく剥がされ、強引に唇を重ねられた。
「う…っぅん」
長い舌がサルトビの歯列を撫で、上顎を舐め、舌に絡みつく。
唇に触れられたのも、口腔を侵されたのも初めてで、混乱と羞恥に頭が回らなくなる。
「…ッ」
跳ねるように離れたのは、ガルデンだった。
どうしたのかとサルトビが体を起こすと、ガルデンは自分の腹の辺りを押さえて眉をひそめた。
「ガルデン…?」
「見ろ、サルトビ」
そう告げて自らの服を捲る。引きしまった細い体には人の皮膚が張り付いている。しかし、左の脇腹が固く変質していた。
サルトビの眼の前で、変質した個所がぷつぷつと盛り上がり、丸く平たいものが次々と現れていった。
「こうして私は変わっていくのだ」
絶句するサルトビにガルデンは語る。
「時々、酷く暴力的な感情に支配され、理性が利かなくなるのだ」
表情はもう冷酷暗黒騎士のそれではなく、今にも消え入りそうな弱々しいものに変っていた。
「ガルデン…」
「このままでは、私はまた誰かを殺す」
サルトビを貫く視線は哀しみに歪まれ、泣き出しそうに見えた。
「体だけでなく、頭も私のものではなくなっていく。まだ私が私である内に、サルトビ…」
―私を殺してくれ。
水音と葉を揺らす風の音。傾きだした陽の光が二人を包む。
世界はこんなにも麗らかなのに、折角罪を清算したというのに、こんな悲劇が何故降りかかるのか。
「何度も言わせるなガルデン」
サルトビは薄い唇で告げる。
「殺さない。決めたんだ」
「…サルトビ、」
「うるせぇっ!」
飲みこめない感情に震えながら思わず立ちあがる。
「お前は生きなきゃなんねぇんだよ!俺が、俺が赦したんだ…」
拳を握りしめ、唇を噛んで、訳の分からない悔しさに俯く。
「サルトビ…」
座ったままガルデンが鱗の手でサルトビの手首を軽く引くと、彼はかくんと膝を付いた。
お互い、泣き出したいのを堪えながら、小さく震える顔を寄せ合う。
「では、私はどうしたらいい」
「…生きろ、精一杯」
ぽつ、とサルトビが答える。
「好きなことをしろ。もし頭ん中が替わっちまっても、お前らしく生きた記憶は魂に残るはずだ」
「魂…」
「何がしたい、ガルデン」
サルトビが、ガルデンの顔を覗き込む。
―嗚呼、この瞳だ。
私の罪を、愚かさを誰よりも知り、憤り、それでも、赦したのはこの瞳だ。
鱗が生えてきたときから、この瞳を持つ少年に幕を引いて欲しいと思っていた。だが、本当は―
「触れても、いいだろうか」
今度は、どちらともなく近付き、唇を合わせた。
触れるだけ、けれど長いキス。
角度を変えて何度も重ねたあと、ガルデンの端正な唇が華奢な鎖骨に落ちる。
「あ…!」
サルトビは羞恥に赤くなりながらも、ガルデンの労わるような愛撫に抵抗するのを堪えた。
「ガ…ルデン」
肩に手を掛けると、服の上からでも皮膚が硬くなっているのが分かる。ぷつぷつと鱗状に盛り上がる感触が掌に伝わり、サルトビは手に込める力を強めた。
西日の中、二つの影はいつまでも重なって離れなかった。
「意外とあるもんだな!」
紫色の小さな花の群生に囲まれ、アデューは叫ぶ。
サルトビが向かった森とは町を挟んで真逆の方向にある岩山で、3人と1匹は順調に任務を遂行していた。
「ええ、可愛らしいわ!それに、とても眺めのいい場所…」
パッフィーがうっとりと谷側の光景に目を細める。
岩肌が剥きだしになり、大きな木がないこの山からは、昨日泊った町とその周辺の森や平地が一望出来る。
「ほんとだな!1日かけて来たかいがあったぜー」
「ここまで来るのは山に慣れた冒険者でないと少々難儀でしたな。さあ、収穫しましょう」
「ハングー!」
イズミの声を合図に、3人が屈みこんでスパイスの原料になるという花を摘んでいく。
宿を出発した昨日と同様、よく晴れた良い日和に、3人は和やかな気分で手を動かす。
「あっ」
唐突にアデューが声を上げ、パッフィーとイズミが彼を見やる。
「竜だ」
指差す方に目を凝らせば、町の向こうの遠い森から、一体の竜が飛び立ったのが見えた。
「ほう、珍しいですな」
「こんなところにいるんだなー」
「あの森は、サルトビがいるはず…大丈夫かしら」
「姫、サルトビは竜に向かっていく、なんて無益で無謀なことはしませんよ」
「そうだよパッフィー!それにあの竜、なんだか悪い奴じゃなさそうだよ!」
まだ1人離れた仲間の心配をするパッフィーは、イズミの冷静な意見と、アデューの根拠のない意見にくすりと笑う。
「ええ、そうねアデュー。あの竜、とっても綺麗ですもの」
竜は白銀の翼をきらきらと輝かせ、森の上を数度旋回したあと、遠くの空に消えていった。
―それからその竜には会っていない。
Fin.