27:エンドレス
置いて行かれたミストロットが、偽りの夏の光を跳ね返している。
「私を殺してもいいのだ…」
苦く、呟いた台詞はサルトビには届かなかった。
何者でも無いのが心地よい?
傍に居れればいい?
そんな考えは陳腐な慰めだ。
自分の心を守る為の偽りの感情だ。
本当は傍に居れなくても良かったのだ。
ただ自分を見てくれれば、この名を、覚えていてくれれば、良かった。
「今更、私は…」
ガルデンは誰もいない部屋で、虚しく拳を握った。
ガルデンの後悔を嗤うように、サルトビの崩壊は進んでいった。
語彙が徐々に減り、包丁の持ち方を忘れ、甲冑と兜を身に着けることを忘れた。
食事を摂ることを忘れることもあった。
料理を作って差し出しても食べる気配を見せず、手伝おうとしても覆面を取ることを嫌がるためそれも出来ず、細い体はますます痩せた。
体内時計も狂ってしまったらしく、最近は真夜中にうろついている。
肉体と魂は密接に繋がっている。
不規則な生活で体力が低下すると、魂の磨耗が進み、忘却が早くなると考え、ガルデンは睡眠薬を飲ませることを決めた。
彼に魔法を掛けてから、70年が経過していた。
夕食後、ガルデンは錠剤を砕きながらあの日のことを思い出していた。
今日のようにコーヒーを作りながら、胸の内でアデューに真っ当な道を選ばないことを謝っていた。
そして、サルトビを手に入れる喜びを噛み締めていた。
(しかし、矢張り間違いだった)
手に入れることは出来なかった。
楽園だと思った結界の中は砂で出来た城で、目の前でゆっくりと崩れていく。
この手に残ったのは永遠等無いという、分かりきった、残酷な事実だけだった。
砕いた白い粉を黒い液体に混ぜ、重苦しい気持ちを抱えサルトビの寝室へ向かった。
「サルトビ、少しいいか」
ノックをし、声を掛けても返事が無い。
今日は寝ているのかとも思ったがそれにしては時間が早い。
「入るぞ」
断ってドアを開けると、サルトビは起きていた。
ベッドの上にあぐらを掻いて座り、沈む夕日を見ていた。
赤い光に染まる白い頬と、ベッドの下に落ちている覆面を見て、ガルデンはカップを取り落としそうになる。
「サルトビ」
声が震えないよう気をつけて再び名を呼ぶ。
振り向いたサルトビの手に、暖かなカップを持たせた。
「コーヒーを淹れたんだ。飲んでくれないか」
言われるがままカップに顔を寄せたサルトビは、液体に唇が触れる前に眉をしかめた。
「嫌だ…薬くさい」
そう言ってカップを突き帰す。
落胆し、ガルデンは受け取ったカップをサイドテーブルに置く。
流石に忍びは敏感だと溜息を吐いて、ふとガルデンは気が付いた。
「今…なんと言った?」
―薬くさい。
体の震えを止められない。
あの日、不老の魔法を掛ける為に飲ませたのも、これと同じ薬、同じコーヒーだった。
ここまで耄碌しても香りの強いコーヒーの中から薬の匂いを嗅ぎ分けたのだ。
一流の忍びだった70年前のあの日だって。
「お前は…気付い、て…」
ガルデンはベッドの脇に崩れ落ちた。
何の薬なのか、ガルデンが自分をどうしようとしているのか分からぬまま、サルトビは自分の身を差し出したのだ。
「死ぬかもしれないと、思ったろう。それでも、私の気が済むならと、私の為ならと、思ってくれたのか、サルトビ」
嗚咽に混じり紡がれる台詞は、今のサルトビには理解出来なかったかもしれない。
それでも、細い指はベッドに額を押し付けて泣くガルデンの髪を撫でた。
ガルデンは涙に濡れた顔を上げ、サルトビを見た。
サルトビは、子供の様な眼でガルデンを見ていた。
「ずっと、縛り付けてすまなかった。有難う」
ポケットから睡眠薬の瓶を取り出し、中身を掌に空ける。
数粒口に含み、サルトビに口付ける。
舌で薬を押し込むと、サルトビは抵抗することなく受け止める。
唇を離し同様にコーヒーを流し込むと、細い喉が錠剤を飲み込んだ。
それをコーヒーが無くなるまで繰り返し、最後は空の口で長いキスをした。
顔を離すと、サルトビは既にまどろんでいた。
「おやすみ」
涙に濡れた顔でそう言うと、サルトビは微かに笑った。
「おやすみ、ガルデン」
それは、忘れられたはずの名だった。
深い眠りに引き込まれたサルトビの体を、ガルデンはきつく抱いた。
サルトビの眠りを妨げ無い様に、声を殺して泣きながら、寝息が聞こえなくなって、体温がすべてシーツに染み込んでも、構わずにただ抱いていた。
太陽が遠い稜線から顔を出し、小鳥が鳴いて、やっと痺れた腕を緩め、少年の躯を抱き上げ、庭に出た。
柔らかな日差しは、サルトビの旅立ちを祝福しているようにガルデンには思えた。
優しく細い体を芝生の上に下ろすと、空に手をかざし呪文を唱えた。
結界が解かれ、2羽の小鳥が庭に舞い込んだ。
そしてゆっくりと花壇に近付き、取り残された午時葵の花を、撫でる様に手折った。
「また明日会おう」
FIN.