50:天使
すっかり陽の落ちた森の中、アデュー達リュー使い一行は焚き火を囲んでいた。
邪竜族との戦いに向けて心配事の多い日々を送っている一同だったが、夕食後の時間はゆっくりと過ごせる貴重な一時だった。
男性陣は談笑しながら夜警の順番を話し合い、傍らではパッフィーがハグハグと戯れている。
それを横目にカッツェは自分の荷物を開いて、なめし皮製の膨らんだ袋を取り出し、1人ほくそ笑んだ。
おもむろにその袋を開き、アデューが近付いてそれを覗き込む。
「どうしたんだよそんな大金」
袋の中には大量の金貨がひしめいており、カッツェはその内の一枚を摘んで見せびらかすように目の前で揺らす。
「わての汗と涙の結晶や」
「また商売かよ…あ」
ふいに上げられたアデューの視線をたぐると、ヒッテルが怖い顔をして立っていた。
「あ、あれ兄ちゃん…水汲みに行ったんや…あっ」
袋を隠す間も無く、ヒッテルはそれを掴み上げる。
「何すんねん兄ちゃん!返してぇやぁ!」
奪い返そうと腕を伸ばすが、ヒッテルは袋を高く持ち上げカッツェの手から遠ざける。
飛び跳ねながらまとわり付く妹をあしらいながら、ヒッテルはつかつかと器用に歩く。
「武器を売って儲けた金だろ。そんな薄汚い金、捨ててしまえ」
ヒッテルはそう吐き捨てると、金貨を入れた袋を大きく投げた。
「ああーっ!」
重量のある袋は勢いづき、木の間を縫って小規模の沼に落ちた。
「流石ヒッテル。コントロール抜群だな」
樹上で皮肉に笑うサルトビを睨んでいる暇もなく慌てて水中を覗き込むも、カッツェの袋はすでにどろどろとした水草の下に隠れて見えなくなっていた。
重い金貨は水底の泥にすっかり沈んでしまったことだろう。
それは安い仕入先を必死に探し、資金の為宝を求めて危険な洞窟に分け入り、カッツェなりに努力して稼いだ金だった。
怒りにわなわなと体が震え、思わず兄に食って掛かる。
「なんやねん偉そうに!兄ちゃんかて銃使うやんか!人殺しの道具やんか!」
場の空気が凍りつき、ヒッテルの眼が泣き出しそうに歪んだ。
次の瞬間、パン、と乾いた音がして、カッツェの眼鏡が飛んだ。
覚えのある頬の熱。
それに加え鼻から液体が流れる感触に、カッツェは慌ててそれを拭う。
「あ…」
拭った手袋に赤い線が一筋走っていた。
反射的に兄を見上げると、一瞬気まずそうに眉を顰め、踵を返して暗い森の中に向かう。
「ヒッテル」
その後をグラチェスと月心が追いかけていった。
とがめてくれなくてもよかった。
だが、恥ずかしい姿を見られる人数は、少ない方がいい。
カッツェは鼻を押さえながらヒッテルとは逆方向に駆け出して行く。
「カッ…」
「放っておきなさい、アデュー」
イズミが静かにそう言うのを背中で聞いて、カッツェは低木の葉を掻き分けた。
(わてばっかりが悪いんか)
覆い茂る木々の間を、カッツェはただ走った。
目的などない。ただ今は、あの暖かい場所には居たくなかった。
走りながら鼻を押さえていた手を外して見る。
赤い色がぼやけて見え、そこで初めて眼鏡を置いてきてしまったことに気が付いた。
鉄の匂いがする。
「あだっ」
逃走は額にぶつかった固い衝撃によって中断された。
そのまま衝突した大木の根元にうずくまる。
眼鏡を外したまま無茶苦茶に走っていたとはいえ、夜目が利くはずのエルフとしてはあってはならない失敗である。
「あー…もお…」
脳が揺れるくらくらという不快な感覚が治まるのを待ちながら、カッツェは心底自分が情けなくなってきた。
額を押さえる手に力を入れると、僅かに痛む。
強か打ちつけた額は、出血はないが小さなこぶが出来始めていた。
「泣きっ面に蜂やでぇ…」
「泣いてらっしゃるの?」
背後から掛けられた声に驚いて振り向けば、眼鏡を手にした少女のぼやけた輪郭があった。
「落としましたよ」
裸眼ではよく見えないが、いつものように上品に微笑んでいるのだろう。
殴られて鼻血を出している自分との、女としての差が余りにも大きく感じられ、カッツェは赤面して眼鏡を受け取った。
「落としたんやない、落とされたんや」
ぶっきらぼうに吐き捨てれば、パッフィーは困って眉を下げながらも微笑んだ。
「止血に効く薬草をサルトビが採ってきてくれました。使ってください」
冷たい態度にもめげずに、パッフィーは優しく声を掛ける。
眼鏡を掛けてみれば、白いハンカチの上に潰された葉が数枚乗っていた。
「高いやろ、こんなん」
葉から染み出る緑色の液体が高級そうなハンカチを汚しているのを見て、カッツェは驚いた。
よく見れば繊細な刺繍まで入っていて、柔らかな光沢は絹のそれだ。
「そんなことはありませんよ。気にしないで使ってください」
半ば押し付けるように渡され、カッツェはそれを戸惑いながらも受け取り鼻に押し付けた。
それを見てパッフィーは満足げな微笑を浮かべる。
(なんでそんなに…)
パッフィーだけではない。皆揃って優しい。
兄を追ったグラチェスと月心も、自分を追おうとしたアデューも、気を使ってそれを止めたイズミも、薬草を探してくれたサルトビも、そして、人を守る為に銃を持つ、ヒッテルも。
分かっている。自分が悪い。
ヒッテルは弱者を守るために銃を撃つ。
そんなことくらいは分かっていた。
けれど、カッツェにも武器を売るようになるまでの理由がある。
ヒッテルが家を出た後、武器商人の父は残ったカッツェにノウハウを叩き込んだ。
気性の荒い父による指導は厳しかった。
投げ出したいと思ったこともあったが、自分まで居なくなればどんなに両親は悲しむかと考えると、出来なかった。
今は、商売は面白いと感じる。だが、普通の少女の様に遊びたかったというのも、本心だった。
皆より何倍も生きているというのに、自分だけが幼稚で愚かである気がして、カッツェはハンカチに隠れて唇を噛んだ。
パッフィーは隣に腰を下ろし、珍しく黙っているカッツェに話しかける。
「わたくしも粘膜が弱いみたいで、お風呂に入ってるときにたまに出てしまうんですよ」
上品な口調が耳を刺し、その顔も見ずにカッツェは言葉を返す。
「でも、殴られて出したことなんてないやろ」
パッフィーの体が僅かに固くなり、空気が張り詰めるのが分かる。
嫌味しか出てこない自分の口が憎たらしい。
少女らしく可憐で、驕ることなく慈悲深く、誰からも愛されるお姫様。
パッフィーと自分は違う。
武器屋の娘が一国の姫君の様になれる訳がない。
カッツェは胸に惨めな想いが充満するのを感じ、今度こそ泣き出しそうだった。
「あります」
「ふぇ?」
やけに思い詰めた声色に、鼻の詰まったカッツェは間の抜けた声を出した。
そちらに顔を向ければ、恥ずかしそうに身を縮こませたパッフィーがいる。
「小さい頃、お父様に作法のことで叱られて…むしゃくしゃしてしまって、その、お父様の大事にしてる花瓶を…」
小さな声でされた告白は、語尾はすっかり消え入ってしまっていた。
もじもじと気まずげに体をくねらせるパッフィーがまるで幼くて、カッツェは思わず噴出してしまった。
「なんや、姫さんも案外やりおるなぁ」
「も、もう!そんなに、笑わないでください」