61:硝子
「ガルデンさんお久し振りで。旅はどうでした?」
硝子屋の店主が作業の手を止めて男に声を掛ける。
ギャロップをひいた男は礼儀的に微笑んだ。
「ああ…注文のものは出来ているか」
「ええ。明日にでもお届けしますよ」
店の奥の居住スペースから、4つの子供達の顔が覗いた。
「あいつ、帰ってきたぞ」
店先に聞こえないよう声を潜めて、子供達は異質な黒衣の男の話をする。
ガルデンはこの田舎町の外れの大きく古い屋敷にずっと一人で暮らしていた。
子供達の祖父母が生まれた頃にはすでにそこに今の青年の姿のままで居たというのだから、いつこの町に来て今何歳なのか、誰も知らない。
「あいついつも何を買っていくんだ?」
男が立ち去ったのを見て、最年長のニケが言った。
男はエルフなのだろうが、この辺りでは珍しい。
古くから住んでいるとはいえ、人間だけのこの町では異質な男はいつでも奇妙な存在として町人達からは一線をひかれ、そしていつの時代も子供達の好奇心をくすぐった。
「硝子板だよ。色んな大きさの、ただの硝子」
ちょうど窓に使うようなものだと、硝子屋の息子のクリスは説明する。
男は時折旅に出る。
その前には決まってこの硝子屋へ立ち寄り、何枚かの硝子を注文していく。
「そんなもの、何に使うんだろ?」
「窓が割れたんだろ」
「だったら枠も頼むはずだよ。それに、うちの硝子はそんな簡単に割れやしない」
じろりと店主に睨まれ、子供達は口を噤んで小さくなる。
「…なぁ、この話知ってるか?」
ひそひそ声でそう言い、最年長のニケが鞄から一冊の本を取り出した。
古めかしくあちこち傷み、裏表紙に学校の図書室の判が捺してある。
「"青髭"…?」
クリスが題名を読み上げる。
表紙には緻密なタッチで上等な衣装を着て笑みを浮かべる小男と、まだ若そうな女の後姿が描かれている。
「いいか、この表紙の男が青髭だ。この女はその妻だ」
何故急に本の話を始めたのか、一同は首をかしげながらも耳を傾ける。
「青髭は何回も結婚してる。だがいつも妻がいなくなる。そのたびに新しい女と結婚するんだ」
「なんで?なんでいなくなっちゃうの?」
幼いステフが口を挟み、姉のコリーがいいから、とたしなめる。
「青髭は大きな屋敷に住んでいる。たくさんの部屋があって、妻に好きなように部屋を開けて過ごせと言う。だけど一部屋だけ、この部屋は開けてはいけないと言う。そうして青髭は妻を残して出かける」
ニケは本を持った右手を揺らし、勿体つけて一同の顔を見る。
早く、とクリスは続きをうながした。
「まあ急かすな。妻は色々な部屋を開けて遊んでいたが、どうしても開けてはいけないというその部屋が気になる。そしてついに約束を破って鍵を回し、ドアをゆっくり開けると、そ、こ、に、は…前の妻達の死体がっ!」
ステフがキャーッと甲高い悲鳴を上げ、残りの3人は思わず耳をふさぐ。
叫んだ後に何故かきょとんとした表情で、こわぁいと緊張感なく言ったステフに、クリスとコリーは笑ってしまった。
渾身の語りにケチがついたニケは、わざとらしく咳払いをして仲間の注目を集めた後、したり顔で囁いた。
「オレは、あいつが"青髭"のモデルなんじゃないかと思ってる」
「まさか」
クリスは呆れた声を出す。
ステフは意味が分かっていないのか、飽きた様子で青髭のページをめくっている。
「ありえなくはないだろ?あいつ、何百年も生きてるんだ。この本が書かれたよりも前から」
「じゃあ硝子はなんなんだ?」
「拷問に使うんじゃないか?割って刺すとか、呑ませるとかさ」
「やだぁ」
コリーが苦笑して首を振る。
ステフは丁度の挿絵のページを開いていて、薄暗い部屋の中に吊るされたいくつかの女の足元と、驚愕に目を剥く若い妻が描かれている。
「あの屋敷にはきっとこんな部屋が…」
「やめろよ」
騒ぎに2階からクリスの母が降りてきて、そろそろお帰りとやんわりとうながした。
もそもそとニケとコリー姉妹が荷物を持ち、クリスとその母に別れの挨拶をして立ち上がる。
「おじさん、おじゃましました」
店先で作業しているクリスの父の横をすりぬける。
「いいかお前達、ガルデンさんの屋敷には近付くんじゃないぞ」
そう釘をさされ、ニケたちは言葉につまる。
「わかりました」
「気をつけて帰るんだぞ」
父の背中を見ながら、クリスはニケが忘れていった青髭の本をそっと後ろ手に隠した。
「クリス、起きなさい!休みだからっていつまでも寝てないの」
母に布団をはがされたクリスは、寝ぼけ眼を擦ってダイニングへ向かう。
階下からギャロップの鳴き声がし、はっと目が冴えた。
「父さん!」
寝巻き姿のまま階段を降りると、父はギャロップに荷台を繋ぎ商品の硝子を納品する準備をしていた。
「ぼくも一緒に行っていい?」
作業の手を止め、父は息子をじっと見詰めた。
「…早く支度をしなさい」
荷台で揺られながら、クリスは固定された硝子に手を添え、仕事を手伝っているポーズをとっていた。
1件目は町中の住宅で、ちゃんと木枠の付いた窓を届けた。
お父さんを手伝って偉い、と褒められたが、動機が不純なクリスは父の後ろでもじもじと気まずく体をくねらせてしまった。
「父さん、ガルデンさんってこの硝子を何に使ってるんだろうね」
2件目はもちろん例の屋敷だ。
好奇心を抑えきれなくなったクリスは思わずそう尋ねたが、返って来ない答えに質問したことを早くも後悔した。
「お前はうちの店を継ぐ気はあるのか?」
「え?」
逆にそう訊ねられ、クリスは手綱を握る父に振り返った。
将来のことはまともに考えたことはなかったが、なんとなく自分は大きくなったら硝子屋になるのだと思い込んでいた。
あるよ、と戸惑いながらもクリスは返す。
父はそうかと返事をして、またしばらくの間黙った。
ギャロップの足音と車輪が石を踏み硝子がカタカタと鳴る。
質問の意図を逡巡するのにも飽きた頃、父は独り言のように呟いた。
「あの家の二階はいつもカーテンがひいてある。窓の鍵は絶対に開けない」
「…開かずの間?」
父はそれには答えなかった。
黙ってしまった父にそれ以上何も聞けず、クリスも口をつぐんだ。
静かな興奮に頬が熱くなっているのが分かり、緩衝材越しに冷たい硝子に頭を乗せた。
父の太い手が古びたドアノッカーをガンガンと鳴らす。
「ガルデンさん、硝子屋です。商品を―」
中からあの男の返事が聞こえる前に、クリスは荷台を降りてこっそりと屋敷の右側の陰へと走った。
玄関からは見えない角度に隠れ、壁に背中を張り付ける。
部屋の中で足音がする。それが遠ざかるのを聞いて、壁から離れ2階を仰いだ。
ここから見る限りでは、確かに全ての部屋に黒いカーテンがひかれていた。
玄関で父と男の話し声がする。
クリスは足音を立てないように歩きながら、注意深く2階を観察する。
うろうろと歩き回り、やっと建物の中間付近の窓から光が漏れていることを発見した。
丁度近くに木が生えていることにも気付き、枝が鳴らないように気をつけながら登っていく。
苦労して窓の高さに張り出している枝に乗り、身を乗り出し僅かに開いているカーテンの隙間から中を窺う。
部屋は意外に明るく、異様なほどの数の窓から日の光が差し込んでいた。