61:硝子
(え?いや違う)
この部屋はすべてのカーテンがひかれているはずだ。
しかし壁を四角く切り取る硝子には外の景色が映り、確かに木は風に揺れ雲は流れている。
どういうことかと注意深く目を動かすと、部屋の中心に人影を見つけクリスは悲鳴をあげそうになった。
中心に水晶の結晶のような巨大な硝子の塊が置いてあり、人影はその中にあった。
クリスよりはずっと年上だが、また少年と呼ばれる年の頃。
何も身に着けてはおらず、細い体に深い傷がいくつも刻まれていた。
青白い肌は死人のそれだったが、穏やかな表情は眠っているようで、薄い瞼が今にも開きそうな気配を感じさせた。
(開かずの間には妻の死体が…)
クリスの小さな心臓がばくばくと鳴る。
そのとき、部屋のドアが開き、危うく飛び上がりそうになった体をなんとかなだめて目をこらす。
ドアをくぐってガルデンが入ってきた。
その後ろを2枚の浮遊する硝子板が付いてくる。
(魔法使いなんだ…)
硝子を持っているということは、納品が終わったのだ。
間もなく父が探しにくるだろうが、クリスはガルデンから目が離せない。
これから何が起こるのか、どうしても見届けたかった。
よく見れば最初に窓だと思った硝子も部屋中に浮いているのだった。
その間を縫うようにガルデンと硝子は進む。
ガルデンは少年の入った結晶の前で足を止め、2枚の硝子も忠実に静止する。
腕を挙げ、掌を結晶に付け、何かを唱え始める。
屋外までは明瞭に届かず、魔法の呪文を知りたいクリスは枝が折れないか気にしながら一層身を乗り出した。
ガルデンの掌から柔らかな光が放出され、結晶に波紋のように浸透していく。
水中にいるように少年の短い髪が揺らぎ、青白い肌に血の色が戻る。
細い指先がぴくりと跳ね、目がゆっくりと開かれた。
ガルデンが微笑し何かを呟く。
目覚めた少年はその顔を見て、嫌そうに眉を寄せた。
ガルデンは振り返り、後ろに浮いている2枚の硝子のうち、小さいほうを自分に引き寄せた。
手をかざしまた別の呪文を唱える。
すると、掌から様々な色が舞い、硝子に絵を描いて行く。
だんだんと形になっていったその絵柄は、見たことも無い花が咲き誇る草原だった。
精密なその絵は映像となり、硝子の中でそよ風に花が揺れ、黄色い蝶がそれに止まろうとひらひらと飛んでいるのも見える。
旅に出て見た風景を、こうして少年に見せているのだとクリスは気が付いた。
描き終わり、硝子が遠い風景を映す窓と化して、ガルデンは少年に振り返る。
少年は表情を変えず、眉を顰めたままガルデンを見詰めている。
ガルデンは小さく落胆の溜息を吐いて、一回り大きいもう一つの硝子を引き寄せた。
また同じ呪文を唱えながら、掌から出る光で風景を描いていく。
徐々に現れたのはどこかののどかな田舎町だった。
どこにでもありそうな雰囲気だったが、建物は変わった形をしていて、この辺りとは違う文化圏なのだと分かった。
それは、昔近所の放蕩息子が東の大陸の土産にとくれた絵葉書に似ていた。
バァンと大きな音がしてクリスは小さく叫んだ。
慌てて口を抑えたが、中の二人は気付いていない。
少年が中から結晶を叩く。
何かを叫んでいるが、硝子の外には声はまったく届いていない。
ガルデンは急いた様子で景色を映した硝子から手をひき、魔法を解いた。
浮遊する魔法まで解いてしまったらしく、落下した硝子板はけたたましい音を立てて砕け散る。
ガルデンが何か話しながら結晶に触れる。
なだめているようにも、すがるようにも見えた。
少年は叫ぶのをやめたが、歯を食いしばり憎々しげにガルデンを見下ろす。
ガルデンは俯き、ずるずると結晶の前に座り込んでしまった。
下を向いたままぽつり、と何か一言零した。
それを聞いた少年の頬がぴくりと動き、表情から怒りの色が薄れる。
その感情は憐憫なのか哀しみだったのか、幼いクリスには読み取れなかった。
少年が握った拳を開き、俯いたままのガルデンへと伸ばす。
その手は結晶の壁の内側に阻まれて止まった。
ガルデンはその動作にも気付かない。
結晶の内側で少年は僅かに顔を歪める。
その顔がふいに、こちらを向いた。
「クリス!」
空になった荷台の上で膝を抱え、クリスはぐすぐすと泣いている。
父の声に驚きバランスを崩したクリスは枝から落下した。
枯葉と柔らかい地面に受け止められ大した怪我はなかったが、落ちた衝撃と開かずの間の秘密を見た混乱とで幼い彼はただ泣きじゃくった。
彼の父は黙って馬車を走らせ、帰路についた。
町中にさしかかる前にただ一言、「誰にも言うな」と釘をさされ、訳の分からぬまま頷くしかなかった。
「いらっしゃ…なんだお前か」
「なんだはないだろう、久し振りに会う幼馴染に向かって」
ニケが無精ひげの生えた顎を掻きながら口を尖らせる。
クリスは太い指で硝子細工を磨きながら苦笑した。
開かずの間を覗き見てから30年の月日が経っていた。
この30年、人並みに色々なことがあった。
クリスはやはり硝子屋に落ち着いたが、隣国の大学に行きたいと父と激しく言い争ったこともあった。
「好きなようにやれ」とでも言ってくれそうな父がああまで反対したのは、後継者がいなくなればあの男がどうかするのではないかという怯えからだったのかもしれない。
しかし、クリスの進学の動機の中にも犯罪の片棒を担ぐことへの恐怖があったのだ。彼にも父を責めることは出来ない。
結局父に負けハイスクールを出てすぐに硝子屋として働き始めたが、あの屋敷に商品を届けに行っても、もう2階を仰ぎ見ることは決してしなかった。
「今帰ったのか?」
「ああ。今回は疲れたなー。海まで行ってきたぜ」
ニケも父親の跡を継いで商人になったが、活発な彼はこのままの経営では駄目だといい自ら遠方まで行商に出掛ける。
「海なぁ。俺なんて何年もこの町から出てないよ」
「お前の世界は狭いなぁ」
「幼馴染と結婚したニケには言われたくないよねぇ」
ニケの後ろでステフがけらけらと笑う。
大人しかったコリーは旅の吟遊詩人と嵐の晩にドラマチックに駆け落ちし、町の男たち総出で探し回ったがついに逃げ切った。
妹ステフはショックで泣きじゃくり、ニケが必死に慰めていた。
そのどさくさでニケはステフと一緒になってしまったのだから、ちゃっかりしている。
しかしそのときニケが発した「仕方ないだろう、あの二人はそうでもしなきゃ一緒になれなかったんだ」という台詞は、何故かクリスの中であの開かずの間の光景とセットで記憶された。
自分を見た少年の目は、少なくとも「助けてくれ」とは言っていなかった。
「狭くなんかないさ」
あの二人の世界に比べれば、ここは迷子になりそうなほど広大だ。
「ああ悪かったよ。まぁ今夜飲もうや。土産話聞かせてやるよ」
夫婦はそう言って手を振った。
見送った視界に、見覚えのある黒い影が映りこむ。
「ガルデンさん、お久し振りで」
あの日見た秘密は口外していない。
そのお陰かどうか、相変わらずガルデンと屋敷は謎に包まれていた。
「ああ。注文の品は―」
どんなに町や人が変わっても、ガルデンは変わらず青年の姿のまま、時折旅に出ては硝子を買う。