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情火

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 雌伏のときといえば聞こえはよいが、実際のところはお互いが無視を決め込んでいるから成り立つ現状だ。

「毛利と面と向かってやりあうと、少なからずこちらも痛手を被るからね」とは、豊臣の軍師・竹中半兵衛の談。もっともらしく聞こえるが、だがこれにはちゃんと裏がある。
 豊臣の屋台骨を支えるの半兵衛の余命はいくばくもなく、それに代わる者はといえば、筆頭に上がるのが己の野望を継ぎ接ぎだらけの襤褸で隠す黒田官兵衛。秀吉が独裁的な男である以上、己を殺し影になれる男でなければあの男の側近は務まらない。
 ゆえに半兵衛が死ねば、もはや豊臣も今のままというわけにはいくまい。だから、半兵衛としても不必要に藪かを突いて蛇を出したくないといったところ。
 目下、豊臣と領土を隣接させる毛利も上杉も、その勢力こそやっかいではあるが、攻め込まれなければ刃向かいはしない。反対に放置すればするだけ問題となる伊達あたりは、いつぞやの戦で見事に戦力を削っている。
 もっともそれ以上踏み込まないのだから、かつての豊臣の姿からは予想しがたい消極性でもって天下は治められている。
 ――いずれ、時が来る。
 このような統治が、長く続くはずはない。元就とてこのままでいるつもりもないし、豊臣配下にも仕方なく従っている輩が多い。
 崩壊の境目は、竹中の死。それを乗り越えられる力が豊臣にあるかといえば、おそらくない。
 そう読んでいたというのに、あの知恵者は最後に嫌な手を打ってくる。秀吉の側近に官兵衛ではなく、さして名前も聞かぬ小僧を据えてきた。それが意外にも有能であったのだから、ひとつの境目は乗り越えた。だが、日に日に難癖ばかりをつけてきて五月蝿くてかなわない。
 ――まるで、あれは豊臣にたかる小蝿よ。
 払っても払っても消えぬのだから我ながら言えて妙だと笑いもするが、かといって現実としてはいささか苦しい。
 半兵衛と違い、小蝿には言葉が通じぬ。まるで、いつぞやに出会った狂信者と同じだ。すべては「秀吉様のため」なのだから。かといって、無視を決め込むにはあまりに毛利と豊臣は近い。
 頭を下げてのらりくらりとかわすことはさして苦痛ではないが、やれ山賊退治をしろだ海賊退治をしろだと事あるごとに注文してくるのだ。こちらの兵力を削がれるのはたまったものではない。
 もっとも、豊臣の狙いはわかっている。こちらの力を削ぎ、消耗させての弱体化させたいのだ。
 だからこそ、真面目に相手などできない。あの小僧のせいで、事実、落ちた国もある。調べさせたところ、かつて伊達軍の出鼻を挫いたのも、彼の手柄だという。
 そう、五月蝿くて叶わぬ小蝿――石田三成。それが寄越してきた書状を見て、溜息が出る。
「瀬戸内を荒らす海賊は、毛利の配下ではないかだと。愚かしいにもほどがあるわっ」
 神経質を思わせる書状を叩きつけ、眼下に広がる海を見やる。本来の居城である吉田の地からわざわざ瀬戸海沿いの忠海にやって来たのも、すべてはこのせいである。
 安芸をはじめとした中国五国を支配下に置く元就だが、瀬戸海は決して毛利だけのものではない。現に、忠海と目と鼻の先にある島々は毛利の配下でありながら伊予河野の預言者を信奉する輩も多いし、向かい合う四国からも船は出る。
 ――そうだ。なぜあ奴の尻拭いを、我がせねばならぬ。
 不愉快極まりないが、戦国乱世の頃から瀬戸海に来ては海賊行為を重ねる長曾我部軍は、毛利にとっては常に不愉快な存在でしかない。おとなしく島に引っ込んでいればよいものを、懲りることなく海を荒らす。
 さらに忌々しいことに、長曾我部元親は決して豊臣に屈していない。それどころか、敵対心すらはっきりと見せている。なのに未だにのうのうとしているのは、あれが四国に住まうからだ。
 こちらがしたくもない苦労を重ねているまさに今、元親はあいかわらず好き勝手をしながら暮らしている。なぜあの男が荒らす豊臣の船の責任まで、毛利が負わねばならないのか。
 結局は海を挟んでいるからこその、自由。
 こちらは頭上を豊臣に抑えられているのだ。せめて迷惑をかけるなと言ってやりたいが、あの男が聴くはずもない。むしろ、海賊行為が毛利衰退に繋がると知れば、より一層励むにきまっている。
 ――だからこそ、忌々しい。
 何度目かわからぬ舌打ちをすれば、遠巻きに控える小姓が上目遣いでこちらを窺う。それになんでもないと手で追い払い、また海を見る。
 海は、嫌いではない。
 毛利が大きくなるためには、必要不可欠な要の地。大内を併呑し周防・長門を抑えたときから、瀬戸海は毛利家のものだったはずだ。なのに、四国で長曾我部が台頭して以来、この海が穏やかであることは少ない。何度か直接刃を交えたこともあれば、いま少しのところで首も取れる機会もあった。
 だがあのときは所詮、四国の鬼よと見逃したのだ。思えば、これこそ豊臣と同じであり、今の憂いに繋がる。
 今、派手に事を起こすわけにはいかない。たとえ海賊征伐であっても、元就自身が自ら軍を起こすことはすなわち、豊臣に口実を与えることになる。
 だからこうして面倒なこともする。
「元就様。ご使者が到着された由にございます」
「……わかった」
 知らせに海から視線を戻すと、小姓を引き連れ別室に向かう。そこに待ち構える男たちの上座に座ると、らしくもなく頭を下げる。
「お待たせ致した。伊予河野よりわざわざのお越し、痛み入る」
 これまで幾度となく使者のやり取りを行い、話は詰めてある。元就が出るのは、これが最後の儀礼的なものであり、念押しの意が強い。もうひとついえば、自らの目で、伊予河野軍という新しい駒を見ておきたかったというのもある。
「いえ。毛利家より瀬戸海を荒らす海賊の話を聞き、姫御前も心を痛めております。瀬戸海は我らの海。皆さんをお守りするのも、義務と心得ております」
 そんな元就の思惑など知らぬ使者は、折目正しく応えてみせる。
「…………それは心強い」
 なにが貴様らの海だ。内心の悪態はおくびにも出さず、頷いてみせる。
 これも四国を治めるあの男への、些細な嫌がらせ。戦力が削げられれば上々。そうでなくても、四国の一部はあの男の自由にはならない。それだけで、気も晴れるというもの。豊臣方にも、こちらの仕業ではないと文を出すついでに隠し巫女について教えてやればよい。
 豊臣に信心があるとは到底思えぬが、一応は名の知れた預言者だ。売れる恩は売るに限る。
 簡単なやり取りを済ませると、部屋に戻って筆を取る。水面下で、日々刻々と変わる情勢。すべてを把握しているとはいいがたいものの、方々に放った透波から絶え間なく報告は届いている。
 なにより、つい先日に繋がった男からの情報を加味すれば今の情勢が嵐の前の静けさ、夜明けを告げる暁闇と知れている。だからこそ、長曾我部への嫌がらせも兼ねて、伊予河野に根を張る預言者を戦場に引きずりこむことにしたのだ――。



「ときに毛利。ぬしは豊臣がいつまで続くと思うておる」
 半兵衛が死に、官兵衛が失脚してから暫し。三成が秀吉の左腕として手腕を振るい始めてすぐの頃。元就のもとに密かに届けられた信書は、あまりに不自然で、自然なものであった。
作品名:情火 作家名:架白ぐら