約束
約束
朝の空気はうっすらと青い薄明かりに染められている。
メリーはきょろきょろと周囲を見回した。延々と続く緑色の連なりには人影は影も形も無い。
右手には玉蜀黍の背高な茎が林となり、左手には馬鈴薯の密に繁る葉が連なっている。それだけだ。
細い、身体を斜めにしてようやく通れるような、畔を踏み鳴らした道。
それでもしばらく見回して確認した後、彼は足元に麻袋を置くとしゃがみ込んだ。
鬱蒼と繁った苗の根元、黒々とした土をそっと押し除けると、昨晩の冷気を含んだそれは、うっすらと冷たい。
苗木の幹を掴み、揺するように引き上げる。少しの反発があった後、ずるりと引き抜かれた苗木の根元には大小幾つもの馬鈴薯が鈴生りになっている。──思わずメリーはにんまりと笑った。
取り残しの無いようにと土を探り、そしてまた次の株へと取りかかる。
その作業を何度か繰り返していると、少々いつもより重そうな足音が近付いて来て背後で止まった。
振り返ると、ピピンが自分の身体と同じかそれより大きく膨れ上がった麻袋を地面に降ろした所だった。ふう、と大きく息を吐いて額に浮いた汗を拭う。
「にんじんとたまねぎととうもろこし、こんなもんでいいかな?」
「それだけじゃ美味しいスープは出来ないさ。キャベツにほうれんそう、なすにトマトは入れたのかい?」
「一緒の袋に入れたら潰れてしまうよ。もう荷車に積んであるから、ご心配なく」
「気配りありがとう。ああ、小麦は?」
「もちろんさ。一袋でいいんだろう?」
「あと干し肉も」
「少々香辛料の効いたものを持って来たよ」
「出来れば兎でも絞めて行きたいけれどね。……こんなものかな」
側に置いていた麻袋にじゃがいもを目一杯に詰め込み、口の紐を締めると抱え上げる。
「さあ、行こうか。早くしないと親父殿に見付かってしまうよ」
くすくすと笑い合うと、二人は揃って麻袋を肩に担ぎ上げた。
早朝の太陽は昇る速度が速く思える。ぐんぐんと姿を現したかと思うと視界は金色に染めかえられ、やがて世界は朝の色へと変わるだろう。
畑の外に待たせた小馬の元へと、重たい荷物に息を切らしながら歩いて行く。ぶるる、と鼻を鳴らした小馬の額をそっと撫ぜ、2人は繋いだ荷台に急いで袋を投げ込んだ。
ピピンが最後の麻袋と共に荷台に転がり込んだのを確認すると、メリーはよいしょと小馬の背中によじ登る。
手綱を取って軽くわき腹を蹴った所で、あ、とピピンが声を上げた。
「どうした?」
「見付かったみたいだ」
え、と声を上げる。それでもお構いなしに小馬はのろのろと歩き出すから、精一杯に身体を捻じ曲げて目を凝らすと、畑と垣根の境界線附近に人影が見えた。
肩に担いだ鍬、手押し車に乗せた農耕具一式。シルエットでも分かる、メリーの父親の愛用の道具達。何よりずんぐりした体型は見間違いようもない。
「……走らせるぞ」
言うが早いか手綱を引いて打ちつける。小馬はぴんと背筋を伸ばし、がらがらと騒々しい音を立てる荷台を引いて駆け出した。
途端に畑の端から端へと届くような怒号が追いかけて来た。空気だけでピピンが首を竦めるのが分かる。
「何しとるんだ、メリアドク! 一緒にいるのはピピン坊主か? ええ?」
「その通りだよ、親父殿!」
大声で怒鳴り返して、それでも小馬を急がせるのは止めない。がたんがたんと跳ね上がる袋を掴まえるのに必死なピピンが抗議の声を上げたが、メリーはそれをあっさりと無視した。
「お前達、そんな逃げるようにしてどこへ行く気だ?」
「「袋小路屋敷へ!」」
声を合わせて叫ぶと、どちらからともなく笑い声が溢れ出る。
「困った放蕩息子共だよ、まったく!」
メリーの父親の吠えるような声の終りは、林に入る道を曲がったところで小さくなって聞こえなくなった。
「帰ったら叱られるだろうなあ」
転がった野菜を袋に入れ直し、荷台の床にきちんと寝せながらピピンが呟く。
二人の家の畑や貯蔵庫から、数多の野菜や穀物が消え失せているのはすぐに分かる事だろう。
それだけの食料を持って逃げるように家を飛び出て、しかも行き先まで教えてしまったのだから、今のところは放蕩息子共呼ばわりで済んだのは感謝しなければならない。
小旅行の後に家に帰れば、きっとそれぞれの父親達に散々叱られ嫌味を飛ばされ、しばらくは気のいい年上の従兄弟の家に遊びに行くのを控えなければならないかもしれない。
「まあ、なんとかなるさ」
それでも大丈夫、とメリーは呑気に笑う。
「そうだね」
同じく楽しそうに同意して、ピピンは小さい袋から干し肉を取り出した。小さく裂いて口に放り込む。
「ぼくにもくれないか?パイプ草を吸えないとどうにもひまでいけないや」
後ろに手を伸ばして言うメリーの掌に比較的大きな固まりを渡して、ピピンはそのまま荷台の端に顎を乗せるように前を向いて凭れかかった。
「眠いよ」
「眠るなよ。ぼくも眠くてたまらないんだから」
「交代で眠ればいいじゃないか」
「一人で馬に揺られていたら眠ってしまうよ。落っこちて気付いたら荷台に轢かれてた、なんて洒落にもならないじゃないか」
「全く我が侭だね、ブランディバックの若旦那は!」
メリーは笑って小馬の背を叩いた。駆け足で進む荷台の車輪の音が、バック郷の目覚めを急かすように朝靄に響いて行く。
もう随分と昇って来た太陽が伸ばした金色の道筋を辿って、二人はのんびりと車輪の刻む心地よいリズムに身を任せていた。
**
おやおや、と声を上げてフロドは大袈裟に肩を竦めてみせた。
「我が家の庭先に市でも開くつもりなのかな?」
「まさか! 売るものなんて一つもないですよ、これは全部あなたへのみやげ物なんだから」
「そうそう。ただ少し、お相伴に預かれるならいいなと思ってるだけ」
得意そうに言い放ちながらも到着早々に無節操に袋の紐を解き、ごろごろと転がり出す野菜に手間取る従兄弟達の姿に、フロドは思わず頬を緩める。
「美味しそうなじゃがいもだね。今年のもの?」
「そう、メリーの畑で採れたばかりの、今年一番の新じゃがいもだよ」
ピピンが得意そうに説明する。手を止めたらまた収拾不可能になる玉葱達に、横でメリーが、うわあ、と声を上げる。
「でも確かまだ、収穫は迎えてないはずだけど」
「そこらへんは聞かないでもらえるとありがたい」
うっかり口を滑らせた相方を平手ではたいて牽制して、メリーが内緒の話でもするように片目を瞑って声を落とした。
「心得ておくよ」
わざと深刻そうな表情を作ってみせてフロドが頷くと、2人は揃って弾かれたように笑い声を上げる。
おやまあ、と聞き覚えのある声が上がり、振り返ると手押し車に剪定道具を乗せたサムが、呆れた表情で立っていた。
「遠路はるばるお疲れ様ですだ、若旦那方。その野菜の山はどうなすったんです?」
「やあ、サム。久しぶりだね」
にこにこと笑ってメリーとピピンが立ち上がる。サムは手押し車を押し、3人のいる方へと歩を進めて来た。足元の野菜の山をしげしげと見詰める。
「行商でも始めるつもりで?」
「まさか! ただの手土産さ。美味そうだろう?」