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落ちる

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自分のことは自分が一番良く知っている。それが本当かどうかは問題ではない。何かの拍子に、それまで目を逸らしたり、気付かない振りをして来た何かに気付く。そこで、気付いた後にそれを如何扱うのかということが重要なのだ。一瞬見えた真実を、また記憶の底に仕舞いこむ努力をするのか。自分の気持ちと向き合っていくのか。必ずしも後者が良いとは限らない。自分自身が崩壊してしまうような問題ならば、何度でも記憶の彼方に放り投げればいいのだから。



背中合わせにエースと座ってぼんやりとしている。どの位こうしているだろうか。人工的な音が無い世界。感覚を刺激するのは、全て進化の過程でこの惑星が直接ご指名した顔触ればかり。空は青くて雲ひとつ無い。時折風が気持ち良くて、葉擦れの音が眠気を誘う。背中合わせの違う景色を見ながら、何を話すわけでもなく、それでも気遣いをしなくていい。背中に感じる、自分以外の熱源にもたれかかりながら何もしないという贅沢な時を過ごす。時間に追われていた生活が夢のようだ。

「ねぇ、退屈なんだけど。」

アリスは背中の男に声をかける。本当は、今この時間が気に入っているんだけれども、わざわざ言ったりしない。素直になるなんて恥ずかし過ぎるから。

「そう? 俺は楽しいな。君と居るだけで退屈じゃなくなるんだ。」

はぁ、そうですか。妙に明るい声で楽しいなんて言ってくれるエースの背中に体重を掛けてぐいぐいと押す。嬉しいよ、凄く。そんな風に私のこと特別って、何の気負いも無く何度でも言ってくれるなんて。でも恋愛感情がなくて、それが心地良い。余りにも特別な存在になると、途端に重くなるから、このままで居たい。

「お~い、止めろよ。危ないだろう?」

そんなのんびりとした声で危ないだなんて、どうせ危ないなんて思ってもいないでしょう。私なんかがちょっと押したくらいじゃびくともしないくせに。悪戯心が顔を出す。ますますぐいぐいと押してみる。
突然、重力の法則に則って、身体が傾いたと思ったら自由落下が始まった。
忘れてた! エースは崖っぷちに腰掛けていたんだった・・・

「いや~~~~~っ。」

「だから危ないって言ったじゃないか。ははは~」

隣で一緒に落ちながら明るく笑う騎士。そこに向かって手を伸ばす。都合良く襟の辺りに手が届いた。夢中で縋り付く。エースの手が腰に回される。身体が密着して少し安心感が増したと思ったのは束の間。ひょいと抱き上げられて着地。この間ほんの数秒。下りた所は緩い傾斜のある草地だった。不幸中の幸い。
アリスは、あっけに取られているうちに、キスをされた。それも軽いキスなんかじゃない。人の口の中を掻き回す様なキスだ。

(ちょっとーー! この非常時に何やってるのー)

アリスは手の届く範囲をばしばしと叩くが、一向に止めてはくれない。この男とは、テントでお泊りする仲ではあるが、挨拶程度のキスですらするような関係じゃない。如何して今、こんな時に。
唇を離した騎士の、赤い瞳が此方を見ている。口元に薄笑いを浮かべて。

「ねえ、お腹減った。アリスのこと食べていい?」

「・・・・・ご存知だとは思うけど、私は食べ物じゃないわ。」

呆れる物騒な発言に、一瞬言葉に詰まった。どういう意味で言っているのか知らないが、こういう時に感情的になってはエースのペースに流される。視線を逸らしながら努めて冷静に答えてみる。

「知ってるよ。アリスを食べてもお腹いっぱいにはならないよね。でも甘くて美味しそうだ。」

「いえ、甘くも無いし、美味しくもありませんから。」

「絶対に美味いって。」

「だから! 食べ物じゃないの、私は!!」

性懲りもなく続けられる意味不明な会話には付き合いきれない。エースの腕から逃れようとジタバタしてみるけれど、どうやら下ろしてくれる気は無いようだ。それどころか益々怪しい雲行きになる。嫌なことを思い出した。以前テントの中で言われた言葉。

(俺がその気になったら逃がさない。)

身体中から血の気が引く。まさかね・・

「そうかな? 俺、絶対に美味しいと思うんだ。それじゃ、いただきま~す。」

「えーっ!?」

言うなり、お姫様抱っこのままで地面に寝かされ上から覆い被さってきた。アリスの両手はエースの顎のところで突っ張って、これ以上接近禁止の意思表示を精一杯やっている。可愛らしく男に組み敷かれて言いなりになるなんて真っ平ごめんだ。

「わっ、悪かったわよ。本当に落ちるなんて思っていなかったんだってば! ごめんなさい。だからこんな乱暴はやめて!!」

そう、きっとエースは怒っているんだと思う。いきなり崖から落ちた原因は私。怒られても仕方ない。そう思いたいアリスが居る。さっきまでの背中合わせの心地良さを失いたくないから。
エースはアリスの両手をいとも簡単に振り払うと、

「俺、アリスのことずっと好きだと思ってた。でも、さっき大好きになったんだ。こんなことしたいくらいに。」

「ちっがーう!! エース、それ吊り橋効果ってやつじゃない。騙されちゃ駄目。」

「吊り橋・・何、それ?」

生理的に興奮した状態で異性に出会うと、相手に恋愛感情を持っていると勘違いしてしまう事だと説明する。崖から落ちるなど、まさにそれだ。たまたま、目の前にアリスが居た。それだけの偶然。それで納得して欲しい。エースの目を見ながら話すアリスは必死だ。

「ふ~ん。それで?」

「だから、エースは勘違いしているだけなのっ!」

ハートの騎士は先程までの勢いを削がれて、アリスの横に足を投げ出して座ると溜息を吐く。その様子を見て安堵した。身体を起こしながら少し離れる。

「ねえ、もう一度キスしたいな。」

地面に視線を落として、手で草を弄りながら拗ねるように言う騎士。大きな子供みたいだ。アリスは迷う。此処で軽くキスをしてこの話を手打ちにするのか、突っぱねるのか。認めるにしても先刻のようなキスは困る。思い出すだけで動悸がする。何だってこんな面倒な事に・・・
一生懸命考える。考えて、考えて、結局答えは出ない。そんなアリスの様子に、エースはおもむろに立ち上がるとアリスに手を差し出す。

「行くよ。」

その手を取り立ち上がりながら、このまま有耶無耶にした方が、お互いが傷付かないのならばそれも良いのかと思った。それはずるい事なのだけれども。



傾斜地を下り、暫くは薄暗い森の中を行く。突然木立の切れ間があり、青い空が見えた。そこでアリスは足を止める。目の前に水深五十センチもないような少し急な流れと、その上に架かる橋。ただ二本の木を渡しただけの簡素な橋だ。人里離れたこの辺りにも人の通る気配を残す橋の存在。向こう岸までの三メートル有るか無しの川幅の橋を渡るのに躊躇する。彼女の少し変わった恐怖癖が理由で。
視覚的に足元が心許ないような感じのする所へは近づけない。引き込まれる感じがして怖いのだ。石やレンガで造られた転落防止の対策のある橋だったり、極端な話、泳いだり水の中を歩いて渡るのに不都合は無いのに、こういう簡易の橋は渡れない。手を繋いでも怖いのだ。

「ほら。」

「だっ、大丈夫。歩ける。」
作品名:落ちる 作家名:沙羅紅月