ネメシスの微睡み~接吻~微笑
ネメシスの微睡み 4
轟々と吹き付ける風の音。
乱暴に開け放たれた扉。
大勢の足音、奇声。
破壊音。慈悲を願う声、怒声。
そして断末魔の声。
訪れた静寂、そして獣じみた狂気。引き剥がされた温もり。替わって全身を支配する苦痛。
容赦なく身に食い込んだ縄が乱暴に引っ張られ、深い闇に放り込まれた。
滑るような空気に堪え難い異臭が立ち込めた暗闇。
啜り泣く声。
気が触れたように繰り返される叫び声。
もう立ち消えそうな弱々しい声。
そこかしこに聞こえていた。
ああ……ここは地獄なのだと思った。
ひとつ、またひとつなす術もなく息絶えていく命。どれだけの時が過ぎたのかもはや判らない。
ただ時折、人間の姿を模した獣が出入りしては何かを確認しながら、助けを縋る声に向かって振り下ろされる無慈悲な暴力。上がる弱々しい悲鳴。気味の悪い音を伴って、やがて静けさが支配した。けたたましい、狂った笑い声が響き渡る。
絶望と恐怖が暗闇に蔓延る。残忍な獣たちの幾度目かの訪れの時、近づいてくる者がいた。狂気の微笑をたたえながら。ああ、どうやら私はようやく、死を迎えることが出来るらしいと覚悟したが。
『ああ、神の子よ……もうすぐだ、もうすぐ……』
ざらつく耳障りな嗄れた声。大勢いた同じ年頃の子供たちは数人を残すのみとなっていた。声すら上げられぬほど衰弱しきっている。それでも、今ならまだ救えるというのに。この狂気の沙汰ではない所業を為す者たちはすべてが息絶え、朽ち果てるのを待ち望んでいるのだろうか。
人間はなんとおぞましい生き物なのだろう。
なぜ、こんな生き物がこの世界に在るのだろうか。
ああ、人はなんと愚かで悲しい生き物なのだろう。
光をなくした虚ろな瞳が大きく見開かれた。吐かれた息の形を示した口は開けられたまま。棒切れほどしかない指先が、一度小さく痙攣してだらりと伸び切った。
これで残されたのは私、ただ一人。
すべての者が息絶える瞬間を目に焼き付けてきた瞳をようやく閉じた。これで心置きなく、いつでも逝ける。この暗闇に独り残される恐怖を他の誰かが味わうことなどさせたくはなかった。ただその思いだけで今まで生き伸びた。
おびただしい数の腐敗した躯の中で安堵の息を吐きながら、もう感覚のない手足を小さく折り畳み、温かな母の腹の中に居たように膝を抱いて私は眠りについた。
――これで私は自由になれるのだと。
作品名:ネメシスの微睡み~接吻~微笑 作家名:千珠