君まであと、
決して華美ではないが細部にまで装飾が施された深い飴色の螺旋階段を降りて行く。高く深く、無数の叡知の扉を結ぶ知の回廊は、いつ見ても埃ひとつ被ることなく、まるで不変のような顔をして美しい光沢を放っている。つるりとした手摺の表面を撫で、フランシスは笑みを深めた。
カツ、カツと鳴る踵の音は小さいが、本来の静寂が大き過ぎるためくっきりと耳に届く。そのため、フランシスは地下一階にたどり着いた頃からそっと足音を忍ばせた。この螺旋が繋ぐ最下層、地下二階の主ともいうべき男は、その管轄する領域故か人一倍警戒心が強い。人が来たと分かると、途端に纏う空気を尖らせる。勿論、業務上必要なことだろうし、相手に伝わる程明け透けに態度を変えることはしない。基本的に愛想のある方ではないが、きちんとマナーを守り良識ある行動を取っている限りは、物腰静かに、意外と親切な対応をしてくれる男だ。しかし抑えめの照明の中、落ち着いた色合いを覗かせゆっくりと瞬く瞳は、その実奥の方ではいつでも誰にでも噛みつけるようにと、爛々と光っている。ほとんどの人間はその攻撃色に気づきもしないだろうが、本能的に頭を押さえつけられているような威圧感を感じ、無意識に僅かな緊張を強いられるはずである。
地下二階に所蔵されているのは、古代から連なる貴重な古書の数々だ。歴史的、学問的価値は計り知れない。それこそ金になどは代えられぬと、フランシスも研究者の端くれとして思う。
そうしたことを考えると、あの男の警戒心の強さもまあ過度とはいえない。良識者の仮面を被った物の価値の分からない馬鹿が、訪ねて来ないとは限らないのだ。聞くところによると腕も相当立つらしい。窃盗目的の暴漢五六人をひとりでねじ伏せたなどという噂が、まことしやかに囁かれているくらいだ。嘘か本当か知らないが、警戒の必要な広いフロアをたった一人で任されていることを鑑みれば、そう信憑性のない話ともいえない。まさに地下二階、古書の番人とも言うべき人物なのである。
しかし。そんな豪腕伝説を持つ太い眉毛の童顔男が、実は意外と可愛い性格していることをフランシスは知っていた。警戒を解いている時の彼は、存外穏やかでちょっと子どもっぽい。訪問者に気づいた翠の瞳に、高圧的に見据えられるのもぞくぞくして悪くはないが、丸い空気を纏って刺繍などに勤しんでいる彼の素の姿を見るのが、フランシスはちょっと好きなのだ。(ちなみに本人は刺繍が趣味だということがバレていないと思っているらしい。)
思わず笑いそうになる口元を押さえて、フランシスはそっと足を降ろす。いつも彼が居座っているカウンター内へと目を向けると、そこには普段通り顰めつらしい顔をした特徴的な眉毛の男が、
「…あれ?」
今日は、いなかった。
*****
利用者の列が途切れた頃を見計らって、菊ちゃーんと、カウンター内の顔見知りの青年に声を投げる。一階にある総合カウンターは大きく、その分訪れる人の数も多い。しかし青年は振り返るとすぐに、隅の方で手を振るフランシスを見つけて、近くへやって来てくれた。こんにちはフランシスさん、との律儀な挨拶に、フランシスも笑ってこんにちはと返す。菊は手にしていたファイルを机上に置くと、ちょっと首を傾げた。
「珍しいですね、こんな時間にいらっしゃるなんて。今日はお仕事はお休みなんですか?」
「いや、今日は午後からこの近くで学会があってさー、ちょっと時間があるから寄ったの」
「あぁ、なる程。それはご苦労様です」
菊は心の込もった労いの言葉と共に、白いシャツに映える爽やかな笑みを見せてくれる。ああ相変わらずいい子だなあどこぞの眉毛とは大違いだと、フランシスは頬を緩めっ放しで頷いて、うんそれでね、と用件を告げようとした。しかし至極珍しいことに、その続きは菊の声によって遮られてしまう。時にフランシスさん、といういつも通りの柔らかい低音には、どこか有無を言わせぬ響きが含まれていた。
「…なに?」
「素晴らしい反射神経をお持ちですね」
「……はい?」
にこっと微笑まれ告げられた唐突な言葉の意味が分からず、フランシスは真面目に疑問の声を上げた。
「え…っと、どういう…」
意味でしょうかと頭をひねるフランシスに、答えないまま意味ありげな目配せだけで応じた菊は、失礼します、と言ってフランシスの首元へ手を伸ばした。
「え?」
「これですよ」
そう言って菊が示したのは、フランシスのシャツの襟である。学会だからと選んできた地味な色合いの右側のそれが、僅かに切れている。
「あれ?」
こんなところ、切れてなかったはずだけど、と今朝からの記憶を辿る内、つい先ほどのあるひとつの事象に思いあたる。
「あっ!!」
明後日の方向に向かい叫んだフランシスに、お心当たりがおありのようでと菊が笑った。
「フランシスさん、書庫の扉に触れようとなさったのでは?」
「…あぁ。あぁうん、そう」
地下二階に辿り着き、主の不在を確認したその後、フランシスはその辺にいないかと彼を探したのだ。しかし、姿は見当たらず、フロアには人の気配もない。ならばここにはいないかと、諦めかけたその時に、まだ確認していない場所があることに気がついた。
(そうか、書庫でお仕事中…?とか)
そう思い、カウンター内にある書庫への扉を省みた。
「…おじゃましまーす」
逡巡は数秒で、とりあえず外から声でも掛けてみようと無人のカウンター内へ入り、書庫の扉に手を伸ばす。だが触れる前に、いつも彼が座っている辺りの机上に、伝言用だろう札が出ているのが目に入った。カウンター内からは逆さまだったが、「留守にしています。しばらくお待ち下さい」と書かれているのが読めた。
「なんだ、」
やっぱりいないのか、と思い僅か扉から身体が離れたその、刹那である。ひゅっ、と何かが顎のすぐ真下を通り過ぎていった。ほんの一瞬の出来事だったので気のせいかとも思ったが、確かに今風を感じた。地下二階、風など吹くわけのないこの場所でである。嫌な予感しかしない。
フランシスはそろりと、瞳だけを左の壁へ向けた。そこでちかりと照明を反射して光ったのは、不自然に壁に突き刺さった、ともすれば見落としてしまいそうな程細い小さな針だった。その意味するところが分からない程、フランシスも馬鹿ではない。
背中にどっぷりと汗をかきながら、そろりと後退を始める。慎重に慎重を重ね、螺旋階段まで無事に辿り着くと、そのまま逃げるように一目散に、一階へと駆け上がって、きたのだった。
「…あれは、トラップですよね?」
「そうですよ、アーサーさんのお手製です」
後ろに、ね?すごいでしょう?とでも続きそうな誇らしげな菊の口ぶりが、フランシスにはちょっと理解出来ない。どう贔屓目に見てあげたところで、なんてものをホームメイドしてくれちゃってんだあの極悪眉毛軽く検挙されろ、といったぐらいの感想しか持てない。
「あ、ていうか違うからね!俺は別にやましいことをしようとしてたわけじゃないからね!」
これだけは言っておかなければと勢い込んで訴えた身の潔白は、何故だか少しも怪しまれることなくあっさりと肯定された。
「あぁ、はい。それは承知しております」
「へ、なんで?」