Honey Trap
今日も紅茶が美味い。どうしてこんなに繊細な味と香りが皆には解らないのか不思議だ。そして残念なことに、メイドが淹れてくれた紅茶が今の気分には合わない。否、悪くは無い。悪くは無いのだが、微妙に違うのだ。少し前までの自分なら気にもしないことだが、今はどうしようもなく落ち着かない。仕方が無いので自分で保管庫に行って、茶葉の香りを頼りに選んでみる。棚の上の方にあった缶を手に取る。
「F.T.G.F.O.P. ・・・・・・最高級ってことか。」
目を閉じて知識を引き出す。今はとてもこれを飲んでみたい気分だと確信すると、誰も居ないキッチンに向かう。温めたポットに茶葉を入れ、自分で湯を沸かし慎重に注ぎ入れると、ポットにカバーを掛けて時間を計る。ポットの中で踊る茶葉を思いながら待っている時間さえも心躍るひと時だ。カップに注ぐと甘い香りがする。この香りに全身包まれていたいと思いながら一口味わう。
「美味しい・・」
思わず零れる声。紅茶を心から愛する者だけが味わえる至福のひと時だ。紅茶と夜は自分にとって必要不可欠なもの。
この身体は不思議なことに、夜になると生き生きしてくる。だが昼は・・・
昼からグダグダと赤いソファに横になる男を見下ろす。頭の下に自分の両腕を枕代わりに、三人掛けのソファから飛び出した脚は足先で交差させ昼寝をしている。その腰の辺りに跨ると、上体を倒して耳元に声をかけた。
「貴方の情婦様のお帰りよ。起きて。」
ブラッドは目を開けると、非常に迷惑そうな顔付きで、まるで犬か猫でも追い払う様に手を振って退けと合図する。
「何よ、自分は昼寝してたくせに・・」
アリスは向かい側のソファに座りながら不満をこぼした。ブラッドはそれには返事をせずに、自分の聞きたい事だけを尋ねる。
「どうだった?」
「いやちょっと・・・街で酷い目に遭って。」
その言葉に眠気も一気に覚めたのか、身体を勢い良く起こしたところで、テーブルに脚をぶつける。左の脛を撫でながら、痛さよりもアリスの方が気がかりのようだ。向かいに座る彼女を心配そうに見た。
「酷い目ってどんな!?」
「城の宰相閣下に偶然会ってね・・。いや、私は精一杯抵抗したんだが、力で負けてしまって無理矢理キスされた。君はいつもあんな酷い襲われ方をしているのか?」
アリスは淡々と話す。もっと具体的に聞きたいのなら話すがと言われ、ブラッドは暫く考える。
此処に第三者が居たなら、きっと困惑したことだろう。いつの間にかアリスがブラッドになっている。外見や声はアリスのままだが、話し言葉はブラッドそのものだ。反対にブラッドは女言葉になっている。
「いいわ。ペーターのすることは大体想像が付くから。いつものことだもの。それより、人の身体だと思って無茶なことしないでよ!」
ペーターの件は聞くまでもなく、いつもの会えて嬉しい抱擁と愛の言葉の羅列だろう。流石に初めてされたブラッドは驚いたろうが、自分はもう慣れている。わざわざ他人の口から報告されたい事ではない。しかし、キスとは聞き捨てなら無い。機会があればきっちり鉄拳制裁を受けてもらうこととする。
「ああ、解っている。信用してくれ。」
「出来るわけ無いじゃないの。本当ならずっと監視していたいわよ。約束はちゃんと守ってよね。」
「君も人の事は言えないだろう? 彼方此方にぶつかってばかりで、私の身体の痣が増える一方じゃないか。」
「それはブラッドの身体が大き過ぎるのが悪いのよ。大体、痣なんて時間帯が変わる頃には消えるでしょう? 私の身体に何かしたら、街のメインストリートで全裸で寝転んでやるから。」
「いや、それは勘弁してくれ。私の身体が襲われそうだ。」
気だるそうな低い男声の女言葉と、甲高くていかにも少女の声の男言葉の奇妙な会話は、彼此十時間帯近く前に始まった。如何してこんなことになったのか。目下のところ理由は不明だ。勿論、元に戻れるという保証も無い。
最初の数時間帯は、暫くすれば元に戻るのではという希望的観測により、二人でブラッドの自室で大人しくしていたのだが、そのうちアリスの身体になったブラッドが、この姿で普段聞けない一般人の声を聞いてみたいと、尤もらしい事を言い出したのだ。勿論、アリスは大反対した。この無鉄砲な男を自由にしたら、自分の身体が無事に帰ってくる保証は無い。そこで自分も付いて行くと言ったら、帽子屋の領主である自分の身に何かあると困ると言われて、体のいい軟禁状態になってしまっている。
それとは別のもう一つの懸念が、滞在先のハートの城の仕事に穴を開けてしまったことだ。この状況では、連絡することすら叶わず、如何したものかと頭を抱える。敵地の領主であるブラッドには、今の状態では絶対に相談できないことだ。
もやもやしながらも、どうすることも出来ずに時間帯だけが変わって行く。
ブラッドの外出時間が徐々に長くなってきている。遂には十時間帯ほど連続で帰ってこなかった。流石に心配になるが、部屋の中をうろうろする事しか出来ない自分に苛々する。遂に禁止されていた一人外出を敢行すると決意した頃に、フラフラになってアリスの身体とブラッドの意識が戻って来た。
「お嬢さん、もう客室まで行くのは面倒なんだ。此処で一緒に寝よう。」
今まで数回あった単独行動のなかで、今回が一番酷い状態だ。どさりとソファに横になると直ぐにも眠りそうだ。
「嫌よ! 変な噂がたったら困るもの。」
ブラッドの身体のアリスは立ち上がると、自分の身体を抱き上げて客室へ運ぶ。自分の身体を自分で運ぶなど実に妙な感じだ。
「お嬢さんの身体は直ぐに体力が尽きる。動きづらいんだよ。」
ぐったりした身体を客室のベッドに横たえると、礼も言わずプイと向こう側に身体ごと向いてしまった。
「そんなに疲れるなんて、いったい何をやっているのよ!?」
その身体に布団を掛けながら訝しむ。とにかく、今は眠ってもらうが、起きたら問い詰めた方が良さそうだ。何か良からぬ事をしている絶対に。部屋を出ようとすると呼び止められた。
「眠れないから一緒に布団に入ってくれ。」
「はああ? ちょっと! 眠ってもいないのに寝ぼけないでよ。」
「いいから。」
そう言うと、布団を捲る。アリスは不承不承ベッドに入った。しかし何ゆえ男の身体になってまで自分の身体を抱き締めなければならないのか。理不尽にも程がある。
「これでいいの?」
不機嫌な声で聞くが返事は無い。でも眠ってはいないようだ。
返事が無い事にも腹立たしさを覚えながら、ふと気付くと自分の髪から良い匂いがしてくる。思わず顔を近づけて匂いを嗅いでしまった。自分は何をやっているんだと焦りながらも、その匂いに何故こんなに安心感を覚えるのか不思議に思う。
不思議だ。背後から薔薇の香りのする自分の身体に抱き締められて安心する。当然といえば当然か。
身体疲労は極限まで来ている筈なのに、脳が興奮状態なのか直ぐに眠れない。この何十時間帯かの記憶がグルグルと頭の中を駆け巡る。
「F.T.G.F.O.P. ・・・・・・最高級ってことか。」
目を閉じて知識を引き出す。今はとてもこれを飲んでみたい気分だと確信すると、誰も居ないキッチンに向かう。温めたポットに茶葉を入れ、自分で湯を沸かし慎重に注ぎ入れると、ポットにカバーを掛けて時間を計る。ポットの中で踊る茶葉を思いながら待っている時間さえも心躍るひと時だ。カップに注ぐと甘い香りがする。この香りに全身包まれていたいと思いながら一口味わう。
「美味しい・・」
思わず零れる声。紅茶を心から愛する者だけが味わえる至福のひと時だ。紅茶と夜は自分にとって必要不可欠なもの。
この身体は不思議なことに、夜になると生き生きしてくる。だが昼は・・・
昼からグダグダと赤いソファに横になる男を見下ろす。頭の下に自分の両腕を枕代わりに、三人掛けのソファから飛び出した脚は足先で交差させ昼寝をしている。その腰の辺りに跨ると、上体を倒して耳元に声をかけた。
「貴方の情婦様のお帰りよ。起きて。」
ブラッドは目を開けると、非常に迷惑そうな顔付きで、まるで犬か猫でも追い払う様に手を振って退けと合図する。
「何よ、自分は昼寝してたくせに・・」
アリスは向かい側のソファに座りながら不満をこぼした。ブラッドはそれには返事をせずに、自分の聞きたい事だけを尋ねる。
「どうだった?」
「いやちょっと・・・街で酷い目に遭って。」
その言葉に眠気も一気に覚めたのか、身体を勢い良く起こしたところで、テーブルに脚をぶつける。左の脛を撫でながら、痛さよりもアリスの方が気がかりのようだ。向かいに座る彼女を心配そうに見た。
「酷い目ってどんな!?」
「城の宰相閣下に偶然会ってね・・。いや、私は精一杯抵抗したんだが、力で負けてしまって無理矢理キスされた。君はいつもあんな酷い襲われ方をしているのか?」
アリスは淡々と話す。もっと具体的に聞きたいのなら話すがと言われ、ブラッドは暫く考える。
此処に第三者が居たなら、きっと困惑したことだろう。いつの間にかアリスがブラッドになっている。外見や声はアリスのままだが、話し言葉はブラッドそのものだ。反対にブラッドは女言葉になっている。
「いいわ。ペーターのすることは大体想像が付くから。いつものことだもの。それより、人の身体だと思って無茶なことしないでよ!」
ペーターの件は聞くまでもなく、いつもの会えて嬉しい抱擁と愛の言葉の羅列だろう。流石に初めてされたブラッドは驚いたろうが、自分はもう慣れている。わざわざ他人の口から報告されたい事ではない。しかし、キスとは聞き捨てなら無い。機会があればきっちり鉄拳制裁を受けてもらうこととする。
「ああ、解っている。信用してくれ。」
「出来るわけ無いじゃないの。本当ならずっと監視していたいわよ。約束はちゃんと守ってよね。」
「君も人の事は言えないだろう? 彼方此方にぶつかってばかりで、私の身体の痣が増える一方じゃないか。」
「それはブラッドの身体が大き過ぎるのが悪いのよ。大体、痣なんて時間帯が変わる頃には消えるでしょう? 私の身体に何かしたら、街のメインストリートで全裸で寝転んでやるから。」
「いや、それは勘弁してくれ。私の身体が襲われそうだ。」
気だるそうな低い男声の女言葉と、甲高くていかにも少女の声の男言葉の奇妙な会話は、彼此十時間帯近く前に始まった。如何してこんなことになったのか。目下のところ理由は不明だ。勿論、元に戻れるという保証も無い。
最初の数時間帯は、暫くすれば元に戻るのではという希望的観測により、二人でブラッドの自室で大人しくしていたのだが、そのうちアリスの身体になったブラッドが、この姿で普段聞けない一般人の声を聞いてみたいと、尤もらしい事を言い出したのだ。勿論、アリスは大反対した。この無鉄砲な男を自由にしたら、自分の身体が無事に帰ってくる保証は無い。そこで自分も付いて行くと言ったら、帽子屋の領主である自分の身に何かあると困ると言われて、体のいい軟禁状態になってしまっている。
それとは別のもう一つの懸念が、滞在先のハートの城の仕事に穴を開けてしまったことだ。この状況では、連絡することすら叶わず、如何したものかと頭を抱える。敵地の領主であるブラッドには、今の状態では絶対に相談できないことだ。
もやもやしながらも、どうすることも出来ずに時間帯だけが変わって行く。
ブラッドの外出時間が徐々に長くなってきている。遂には十時間帯ほど連続で帰ってこなかった。流石に心配になるが、部屋の中をうろうろする事しか出来ない自分に苛々する。遂に禁止されていた一人外出を敢行すると決意した頃に、フラフラになってアリスの身体とブラッドの意識が戻って来た。
「お嬢さん、もう客室まで行くのは面倒なんだ。此処で一緒に寝よう。」
今まで数回あった単独行動のなかで、今回が一番酷い状態だ。どさりとソファに横になると直ぐにも眠りそうだ。
「嫌よ! 変な噂がたったら困るもの。」
ブラッドの身体のアリスは立ち上がると、自分の身体を抱き上げて客室へ運ぶ。自分の身体を自分で運ぶなど実に妙な感じだ。
「お嬢さんの身体は直ぐに体力が尽きる。動きづらいんだよ。」
ぐったりした身体を客室のベッドに横たえると、礼も言わずプイと向こう側に身体ごと向いてしまった。
「そんなに疲れるなんて、いったい何をやっているのよ!?」
その身体に布団を掛けながら訝しむ。とにかく、今は眠ってもらうが、起きたら問い詰めた方が良さそうだ。何か良からぬ事をしている絶対に。部屋を出ようとすると呼び止められた。
「眠れないから一緒に布団に入ってくれ。」
「はああ? ちょっと! 眠ってもいないのに寝ぼけないでよ。」
「いいから。」
そう言うと、布団を捲る。アリスは不承不承ベッドに入った。しかし何ゆえ男の身体になってまで自分の身体を抱き締めなければならないのか。理不尽にも程がある。
「これでいいの?」
不機嫌な声で聞くが返事は無い。でも眠ってはいないようだ。
返事が無い事にも腹立たしさを覚えながら、ふと気付くと自分の髪から良い匂いがしてくる。思わず顔を近づけて匂いを嗅いでしまった。自分は何をやっているんだと焦りながらも、その匂いに何故こんなに安心感を覚えるのか不思議に思う。
不思議だ。背後から薔薇の香りのする自分の身体に抱き締められて安心する。当然といえば当然か。
身体疲労は極限まで来ている筈なのに、脳が興奮状態なのか直ぐに眠れない。この何十時間帯かの記憶がグルグルと頭の中を駆け巡る。
作品名:Honey Trap 作家名:沙羅紅月