Honey Trap
まず、偶然街で会った宰相には驚いた。街中だというのに人目も憚らず、寝言を言いながら抱きついて来ることもだが、彼は自分より小柄で華奢な男だった筈なのに、この身体では見上げ無ければいけないことと、掴まれた腕を振り払うことすら出来なかった。必死で抵抗したが、路地に連れ込まれキスまで許してしまう。此方にすれば男同士のキスなどという趣味は無いのだが、相手はアリスだと信じているわけだ、抵抗すればするほど強く抱き締められて大変な目に遭った。
しかし、それを報告してもアリスは動じてはいなかった。二人の間では、あれは日常的な挨拶だとでもいうのか。なんだかとても不愉快な気がしてきた。
それにしても、渾身の力を込めたパンチも片手で受け止められてしまった時には焦った。此処まで歴然と力の差があるとは思ってもみなかったことだ。こんな人間が銃器も持たず、よく平然と外出できるものだと驚嘆する。
だがしかし、自分にとってのせっかくのチャンスは見逃さない。今回、徹底的に利用させてもらった。この身体ならハートの城に堂々と出入りできるばかりか、冷酷無慈悲で切れ者と名高い宰相にも、残虐で処刑が三度の飯より大好きな女王にも、安全に且つ簡単に近づくことが出来るのだ。
先ずは偶然会った宰相を懐柔するため、相手の望むことに付き合って行動する。服やアクセサリーも相手の言うがままに買ってもらい、機嫌が良い所を狙って此方の要求を出す。無論、怪しまれたり、却下される様な要求などはしない。
出来るだけ一緒に居たいから、執務部屋付きのメイドにして欲しい。
これで執務中であっても、不在であっても疑われること無く部屋に出入りできる。来客の顔触れを観察し、無造作に置かれた書類を分類・整理する振りをして盗み見る。しかも女王の部屋への出入りもチャンスがあるかもしれないという、まさに千載一遇のチャンスなのだ。
だが、一つだけ誤算が有った。合鍵だ。宰相はアリスの部屋の合鍵を、宰相権限で持っていたのだ。夜毎忍んでこられては眠る暇も無い。その上、露出の多いナイトウエアなどを用意されて、着替えまで要求される始末だ。拒否すると後が面倒なので、手を出さないという約束で着替えたのだが、これでベッドの中で後ろから抱き締められては、流石に身の危険を感じないわけにはいかない。なにせ、宰相閣下は鼻血を出すほどに興奮しているらしいのだ。
それで無くとも最近、宰相の顔は美形だとか、気が緩むと考えている自分が居て怖かった。本当ならもう少し潜入して居たかったのだが、体力的に限界だったのと、自分の中の宰相に対する感情が、アリス由来なのか、そうでは無いのかが不鮮明になってきており、急遽帽子屋に戻ってきたわけだ。
後ろから抱き締める自分を振り返った。夕闇の中に自分の寝顔がある。自分の顔を他人の目を通してみるのは、何度見ても妙な感じだ。
寝返りすら面倒なほど疲れているのだが、それでも自分の身体の方に向き直るとアリスの唇を自分の唇に近づける。触れた途端に目の前が真っ暗になった。
アリスは近過ぎるブラッドとの距離に驚いて身体を離した。身体が元に戻っている。それは喜ばしい事なのだが異常に身体が重い。動くことが辛いのだ。それでもこのままこの男と一緒のベッドでは眠る気にはなれない。
人の身体をこんなに酷使したことに対して怒りがある。今直ぐにでもブラッドを叩き起こして説教してやりたいが、体力的に無理だ。ソファに移ると直ぐに睡魔が目蓋を閉じさせた。
ブラッドに酷使された身体の疲労が取れるのに、二・三時間帯休まなければならなかった。それでもだるさが少し残る。やっと起きてみればブラッドは不在。一体何をしていたのか聞けないままに屋敷を出て城に向かう。これ以上仕事に穴は開けられないのだ。
久々に城へ戻ると、まずは自分の勤務がどうなったかを確認に行く。次にペーターに苦情を忘れず言っておかなければならない。急ぎ廊下を歩いていくと、厳しい顔で部下に指示を出していたペーターが、アリスを見つけて驚いた顔で近づいて来た。
「アリス! 何処に行っていたんですか? 急にいなくなったりして僕を心配させないでください。」
そう言いながら、白い耳を後ろに倒してギュッと抱き付いてくる。気のせいか何時もより強い力で締め付けられている感じだ。苦しい。振り解こうとしても出来ない。
「ペーター、苦しい。放して。」
「貴女と街でお会いした時に買ったドレスが、やっと届きましたからね。」
腕の力は緩められず、耳元で小さく話しかけられる。
「えっ?」
「ほら、沢山試着したじゃありませんか。」
再び耳元で囁かれ、鉄拳制裁も忘れるほど驚く。
「は?」
「また夜に其方に行きますね。」
耳元でこそこそと話すと、アリスの顔を見て頬を染めて恥じらう様子のペーターに、なんだか嫌な予感がした。合鍵で夜毎客室に侵入してくるのを撃退していた筈なのに、どうしてこんなに堂々と侵入を宣言をしているのか謎だ。それに、仕事に大穴を開けている筈なのに何も聞かれない。
客室に飛んで戻るとクローゼットを確認する。空だった筈のクローゼットにはびっしりと衣類が詰まっていた。その殆どが、きっとこの先一生袖を通さないような趣味の物ばかりで呆れる。自分の後ろで腕組みをしながら、満足そうにクローゼットを見ているペーターを振り返ると、アリスはきつく言い放った。
「返品よ。返品!!」
「えーっ!? アリス、どうしてですか? せっかく二人で選んだのに。」
満足そうにしていたペーターは、理由が解らないという表情で此方を見ている。その顔を見ていると、ますます腹が立ってきた。
「いいからっ。気が変わったのよ。」
怒りで声が震える。顔の前で拳骨をつくって見せると、渋々納得したようだ。
「はあ~~~ 最近のアリスは従順で可愛かったのに・・・」
ブツブツと独り言を言いながら部屋を出て行くペーター。
(あんのエロ爺~。許せない。何が、仮の姿で情報収集よ!!ちゃっかり人の身体で遊んでたんじゃないのっ!)
身体が入れ替わってしまった時に、着替えと入浴とアリスの身体への必要以外の接触を禁止すると言い渡していたのに、見事に破られていたわけだ。自分に内緒でこれは許せない。
それから直ぐにメイドの仕事を割り振っている顔無しのところへ行くと、もっと驚くことを聞かされた。
宰相の部屋付きのメイド・・・いつの間に。
勤務に穴を開けたのは一度だけ。 病欠ということになっていた。次の勤務まで四時間帯有ると確認すると帽子屋へ急ぎ戻る。
丁度屋敷に戻って来たエリオットと門のところで会った。数人の屋敷の部下も一緒だ。アリスの姿を見ると顔無し達は先に屋敷に戻っていく。
「エリオット様、では我々は先に戻って用意しますので。」
顔無しの声に、返事の変わりに手を上げて合図する。それからエリオットはアリスに向き直ると、笑顔で話しかけてくる。
「おう! アリス、また遊びに来たのか。もう此処に住んじまえよ。ブラッドも喜ぶぜ。」
「何だか忙しそうね? 危険な事じゃ無いでしょうね。」
作品名:Honey Trap 作家名:沙羅紅月