春の嵐
◇ ◇ ◇
翌日、授業が終わった香穂子は、高等部に足を伸ばした。 先月まで足繁く通っていた音楽準備室のドアの前で、深呼吸を繰り返し「よし」と喝を入れて、ノックをする。
「こんにちは……」
奥のデスクにかじりついた白衣の主は、香穂子の姿を視界に捉えると、表情を和らげて、片手をひらひらと振った。
「今からお昼ですか……?」
「おう、仕事が押しちまってな。ようやくメシだ」
準備室内に漂う油の匂いと、割り箸を乗せた発泡スチロールの容器を見て、香穂子が眉根を寄せる。
「カップラーメン……先生……」
「ははは……給料日前なんでな。猫缶と一緒にまとめ買いしておいたストックだ。今日ぐらいは大目に見てくれや」
「だったら、私、明日から、お弁当を作って来ましょうか? あまり美味しくないかもしれないけど……」
先日のお泊まりデートで、金澤はかなりの大枚を叩いているはずである。自分にも責任の一端があるのだから、それぐらいは当然だと香穂子は思った。
金澤は一瞬、ぽかんとした表情を浮かべ、頭を振る。
「……サンキュ。その気持ちだけもらっとくわ。お前さんの本分は勉強だろ。俺なんかに構わず、しっかりと学業に励めや。……で、どうした?」
「いえ、何でもないです。ちょっと顔が見たかっただけ」
こんな状況で、高額なアクセサリーをねだることは、まず不可能だ。
「ん、そうか。……そろそろ良い頃合いだ」
金澤は壁の時計を見上げると、割り箸に手を伸ばした。
「あの……先生。今週の土曜日は、先生の家に行ってもいいですか?」
「あーまだ、部屋が片付いてなくてなぁ」
「だったら私も手伝いますよ」
「いやいや、それは悪いって」
香穂子の提案に金澤は難色を示す。
正式に交際を始めて、既に一ヶ月以上が経つが、金澤は未だに香穂子を自宅アパートに招き入れようとはしなかった。
露骨に一線を引かれていることが、香穂子にはどうにも悔しくてやりきれない。悔しさを通り越して、悲しくなる。今すぐに愛されている証が欲しかった。
「先生、キスして」
「は……? お前さん、いきなり何を言い出すんだ?」
「いいから、早く」
「ダメだ。ここは学院だ、けじめはつけようぜ」
香穂子は金澤の首に手を回して体重をかけると、強引に引き寄せた唇に自分のそれを押し付けた。
「おい、いい加減にしろよ」
金澤の琥珀の瞳に微かな怒りの色が浮かんだ。香穂子の視界が涙で滲む。
「馬鹿、どうしてそんなに余裕なのよ……」
震える声でそう吐き捨てると、香穂子は彼の顔を見ないまま、準備室を飛び出した。
その日の夜から香穂子は、毎日欠かさなかった「おはよう」と「おやすみ」の挨拶メールを送るのを止めた。
メールが来ないことに対する彼のリアクションを期待してのことだったが、金澤からの連絡は来なかった。
二人のぎくしゃくした関係は修繕できないまま、あっという間に週末を迎えた。