春よ、来い。
桜の花が咲き始めました。よろしければ、見に来ませんか?
そんなメールが日本から届いて、プロイセンは思案顔で眉を寄せ、引き出しを漁る。取り出した通帳の残高を確認し、それからネットを開いて、日本行きのチケットを購入すると残高のもとない財布にカードを突っ込み、パスポートを手にし、PCの画面を閉じて部屋を出る。
「あー、書置きしとかねぇとな…『ヴェストへ お兄様はちょっと日本に桜を見に行ってくるぜ。一週間くらいしたら帰るから心配すんな』…と。これで良しと」
仕事で家を空けているドイツに短いメモを残し、戸締りを確認する。恋人の顔を見るのは二月に国際会議場で顔を合わせ誕生日を祝ってやって以来だから、もう一月は経つ。柄にもなく弾む心が何やらひどく照れ臭く思えたが、まあいい。…プロイセンは家を出た。
フランクフルトから、およそ半日。漸く空港に着いて、バスに乗る。通いなれたもので不自由は感じないし、日本語も日本との付き合いが長いお陰で会話に行き先の書かれた案内板を読むことに苦労はしないし、大概、自国語ではないが英語も併記されている。日本の自宅が近い行き先のバスに乗り、窓の外を見やれば、自分が百年以上前に訪れたときとすっかり変わってしまった町並みと白い花をつけた木々が立ち並んでいるのが見えた。
『私の好きな花なんです』
そう言って、日本が微笑ったのはいつだったか。
随分前、確かドイツ帝国が設立して、自分の居場所が緩やかにドイツへと委譲されていくのを感じ、消える前に色んな所に行こうと見ておこうと思い、ドイツが止めるのを振り切って、流離うように国を出た。欧州を巡り、それからイギリスで船に乗った。プロイセンと言う名になってから、欧州を出るのは初めてだ。そして、海を渡ったのは「マリア」から「ドイツ騎士団」になって拠点が移った為に地中海を渡って以来か。海は昔と変わらず空を映し続けて、青い。揺れる波が珍しく眺めていられていたのは束の間だった。陸で馬に揺られるのは慣れたものだったが、波に揺れる船上は身体に合わず酷い船酔いに苦しんだ。それに漸くどうにかこうにか慣れた頃、上海を経由して、日本に着いたのだ。
「貴国の軍備と憲法を学ばせてください!!」
黒髪、白い頬、まるで年端もいかぬ子どものような青年を前に、ぼんやりプロイセンが思ったことと言えばドイツとは違う触り心地に違いない丸っこい撫でがいのありそうな頭を撫で繰り回してみたいだった。その間、一生懸命に喋る日本の口上に飽きてしまった。そして、侮った訳でもないがそれを遮った。「長い」と文句を言った自分に、日本は怒鳴るようにそう言って、プロイセンを真っ黒な瞳で睨んだのだ。
(…こいつ、怖い奴かもしれねぇ)
その目を見れば、相手のことが何となく解る。自分の目はこの世界では異端の色をしている。その目を正面切って、正面で見据えてくる者など滅多にいない。
(…でも、俺の敵にはならない…そんな気がする)
それなら、ちょっとくらい親切にしてやるかと言う気になって、あとこの小さな異国の青年に興味も湧いて、熱心に色々と教えてやった。日本は真面目で勤勉、自国民と気質が酷く似ていた。そして、フランスやイギリスから訊いていた通り、順応力に長け、それを吸収し、自分に沿った新しいものにしていく発想力に驚くこともしばしばだった。これがほんの数十年前まで引き篭もっていたのかと疑った。
「師匠、ここを説明していただけませんか」
国内にいる間、日本は自分の後ろを雛鳥のように付いて回っては、教えを乞うてきた。年若く見えた日本が悠に自分の二倍も生きていることを知ったときには酷く驚いた。その日本が「師匠」と自分を呼ぶのが擽ったくもあったが悪い気はしなかった。そして日本が自国へと帰る別れ際、
「師匠、是非、私の家にもいらっしゃってください。お待ちしております」
と、言ったそんな言葉を真に受けた訳ではないけれど、好感を持った、欧州の誰とも違う潔さと独自の美学を持ち、二百年もの間、引き篭もっていたとは思えぬ、その間他の侵略を許さずにいた青年の、日本という国を見てみたいと思ったのだ。しかし、日本までで行くのに約二ヶ月弱かかったあの頃に比べ、随分と世界の端から端まで行くのに時間は短縮されたものだ。
(…驚いた顔してたっけな)
横浜に船が着いて、その港は石造りのレンガ造りの建物が立ち並び、ちょっと見欧州の港町のようだった。頬を撫でる湿った風と行き交う人々の髪の色や服を見て、ここがそうではないのだと解る。そこから事前に連絡していた高官に東京まで連れて行ってもらった。見たことのない異装の人々が行き逢う道、馬上の自分を見上げる物珍しげな視線。木々で作られた家。見るもの全てが新鮮に映る。剥き出しの踏み固められた道の沿道を白い花をつけた木々が並び、白い花びらがひらひらと落ちていく光景は今まで目にしたことがない。美しい。馬を止めて、その光景に見入ることもしばしばで。見惚れている間に人だかりが出来て、自分を見上げ、ほうっと息を零す青年の民にどんな顔をすればいいのか解らず解らないまま曖昧に微笑めば、更に溜息が漏れたの思い出す。自分の容姿が欧州でも珍しがられるのだからこの異国の地では尚更だっただろう。「石を投げられずに済んで良かったですな」と同行した高官がほっとした顔でそう言ったのを思い出す。畏敬と畏怖は背中合わせだ。…そして、時代は変わったものだ。今では然程、自分の容姿は不自然に思われなくなってきたようだ。
百年前、東京に着いて、大使館で休んでいた自分の元へ、息を切らして駆け込んできて、自分を見つめ嬉しそうに微笑んだ日本は何と言ったか…。
「いらっしゃるなら、連絡して下さればお迎えにあがりましたのに」
日本の家から程近いバス停で降りたプロイセンを迎えたのは、日本。隣で「わん」と日本が飼うぽちくんが吠え、尻尾を振った。そのぽちくんの頭を撫でてやり、プロイセンは日本を見やる。僅かに頬を膨らませ睨む日本にプロイセンは苦笑を浮かべた。
「…降りたら連絡しようって思ってたんだよ。…つーか、何で、お前、ここにいるんだ?」
「ドイツさんからご連絡、頂いたからですよ。…来てくれるだろうとは思ってましたけど、まさか、こんなに早く来られるとは思ってもいませんでしたよ。…嬉しいですけど」
膨らませた頬を緩め、日本は小さく笑う。それにプロイセンは目を細めた。
「……そーかよ。…ってか、あのときと同じ顔して、同じこと、お前言うし」
「はい?」
「俺が初めて、お前ん家に来たときにも同じこと言われた」
「…当たり前ですよ。師匠を迎えに行かない弟子なんていません。ましてや、あの時は恋い慕う相手、今は愛しく想う相手を家で悠長に待ってられるほど、私は気が長くないんですよ」
すっと目を細め睨む日本にプロイセンはどんな顔をすればいいのか解らず、気恥ずかしくなって視線を逸らす。
「俺だってなぁ……そのお前によー……。……あー。まあ、いいや。…早く、お前ん家行こうぜ」
会いたかったのだ…とは、簡単には言えない。何事もなかったフリをして、日本の家の方角に足を向ける。
「俺だって…何ですか?」