夏目と茶碗
その日夏目が帰宅すると、外に出ている塔子が足元にある何かを眺めていた。
「どうかしたんですか」
「これ、誰のかしらねぇ」
声を掛けると、頬に手を当てた塔子の独り言のような問いが返ってくる。
見れば彼女が膝を折るすぐ傍には、たたき割られたかのような陶器の欠片が落ちている。粉々に砕けた茶碗を見た夏目は、少しだけ痛そうな顔をして、それから何か尊いものを見るような顔つきでその欠片を拾い上げた。
「これは、俺のです。とても大切な……」
――その妖怪の名は、影茶碗と言うそうだ。
事の始まりは数日前。夏目はふと、ぱたぱたと家の中を駆け回る足音に気が付いた。
妖怪が家の中に居るなんて、と青い顔で部屋に戻った夏目が座布団の上で丸くなっている先生をつかまえると、2週間も前から住み着いていたと、先生はさも当たり前のように告げた。言外に気付かなかった自分を詰るような雰囲気に、まったく役目を果たしていない白くころころした用心棒もどきをため息混じりに見つめた。
「にゃんだ夏目、害はないから放っておいたのだ。役立たずと蔑む様な目で見るのはやめろっ!」
「後から言われても微妙だよ、先生」
聞いた限りでは、放っておいても大丈夫そうだったので、夏目はとりあえず無視を決め込むことにした。躍起になって追いかけまわしても、かえって「心配」をかける結果になる。これまでであれば「迷惑」と言っていたところだが、夏目も藤原夫妻の優しさは身を持って実感している。必要以上の遠慮はそれを無碍にするのと同じだ。
「気まぐれにその家の者の、災厄の身代わりとなることもあるらしいぞ」
「ふぅん……妖怪にも良い奴はいるんだな」
「何を言っている、目の前にその最たる者がいるだろうが」
「……どこだ?」
「にゃんだとーーっ!!!」
それから数日後。大きな妖怪に襲われた夏目が、寸でのところで大けがを免れた、と言う事があった。
大きく口を開けた妖怪を目の前にした時、ダメだ、やられると覚悟をした。咄嗟の事に逃げることもできなかったはずだ。
目を瞑った夏目を咀嚼しようと、人間一人くらいは余裕で丸飲みしそうな程大きく開かれた口を見せつけて大妖怪が襲いかかった。
勢いよく閉じられた口の中で、ガチッと固いものを砕いた音がした。一瞬怯んだ大妖怪が再び襲いかかろうというところで、先生が間に入り追い払ってくれたようだった。
倒れ込んだ夏目は、自分の身体が襲われたはずなのに大きな怪我もない事に気が付いた。
確かに骨が砕かれたような音を聞いたはずだが、起き上がってみるとそんな痛みはどこにもなかった。
(あの音はいったい――)
「もの好きな奴だな」
割れた茶碗を集めている夏目に、先生がふんと鼻を鳴らして言った。
「だって、こいつは俺を守ってくれたんだろう。ちゃんと供養してやりたいんだ」
一つ一つ、欠片を丁寧に拾い上げていく。辺りを見渡して全て拾った事を確認すると、それを大事に持って部屋へ引きあげた。
カバンを置き、机の上にハンカチを広げてその上に集めた欠片を置いていった。大きさは様々だったが、それ程複雑に割れてはいないようで、パズルのように合わせる事ができそうだった。
試しに一つを取って、それに合う相手を探す。探せばすぐ近くに鋭角に尖った先に合う、くの時に欠けた欠片があったのでそっと合わせた。
「そんなことをしても元には戻らんぞ」
「わかってるよ。でも、身代わりになってくれたんだ」
「……ほどほどにしておけ、夏目」
「どういうことだ?先生」
「お前は私に比べたらちんけなものだが、人にしては力を持ち過ぎている。元には戻らんが、お前が持っていると言うだけで妙なことになりかねない」
「それは、これ自体が力を持つという事か?」
「そうかもしれないし、何も起こらんかもしれん」
「なんだ、曖昧だな。」
「起こりうる可能性を指摘してやったのだっ。お前は面倒事を引き寄せやすいからな!」
白く丸い身体を跳ねさせて捲し立てる先生の言葉に、身に覚えのあり過ぎる夏目は思わずぐっと詰まった。
「それも早く捨ててしまえっ。そんなもの取っておいても仕方ないだろう」
「っ、にゃんこ先生は薄情すぎる!なんて冷たいやつなんだ!」
「にゃにぃ!」
欠片を掻き寄せてハンカチで包み、立ち上がった夏目に、先生は片目でちらりと視線を投げた。
「それをどうするつもりだ?」
「庭に埋めてくる。」
「…フン、情けを掛けおって」
先生はふすまを開けて出て行く夏目に背を向けて、小さな丸い尻尾を不満げに揺らした。
茶碗の墓は、夏目の部屋から見える庭の片隅に作った。
邪魔にならないように小さな小山にして花を添えただけの簡素なものが、その時夏目に出来た精一杯だった。
その日の夜、風呂から上がった夏目が部屋に戻ると、先生が窓際で小さな身体を起こして外を眺めていた。
パタン、と後ろ手にふすまを閉めた音に気付いた先生が、鼻を鳴らして窓枠から前足を下ろした。
「なんだよ先生。まだ怒っているのか?」
「怒ってなどおらん」
「どうみたって不機嫌じゃないか」
「お前がひ弱なくせに余計な世話ばかりするからだっ」
「なんでそんなに突っかかるんだよ、先生」
先生の怒る意図がいまいち掴み切れず理由を問いただした夏目だったが、先生はツンと顔を逸らして無視をするばかりだった。
「……もう、いいから寝るぞ」
頑なな態度に夏目がため息交じりに声を掛けると、先生はしぶしぶといった体で夏目の枕元まで歩いてくる。不機嫌をありありと表現している先生に、夏目はやれやれと肩をすくめた。
「今日は寒いから中に入るか?」
どう機嫌を取ろうかと考えてそう誘いを掛けたが、やはり返ってくるのは無言で、夏目は仕方なくそのまま布団をめくった。
すると夏目が入ろうとした隙に先生がその内側にもぐりこんできて、夏目の身体の横で丸くなった。
「お前は不用意に優しさを振り撒きすぎなんだ」
「……気を付けるよ」
布団の中から小さく聞こえた文句には、不器用な優しさが滲んでいた。
「貴志くーん、朝ご飯出来てるわよー」
「はーい」
既に起きて支度を済ませていた夏目は、階下から呼びかける塔子の声に応えながら机の横に置いたカバンを取ろうとした。
「あれ?」
伸ばした手を止めて、机の上に転がるものを摘みあげる。幾つか散らばるそれは、陶器の欠片のようだった。昨晩はこんなものあっただろうか。
「夏目、早くしないと食いそびれるぞ」
ぐずぐずするなと背後から先生に追い立てられて、夏目は欠片を元の場所へ置くと、カバンを掴んで少し急いで部屋を出た。
(あれってもしかして昨日の茶碗か?)
通学路を行きながら、夏目は机の上の欠片について考えていた。
全部拾って庭に埋めたと思っていたが、それが残っていたのだろうか。
きっとそうに違いないと納得した夏目は、机の上の欠片はまた今度一緒に埋めてやろうと思いながら、しかし家に帰る頃にはすっかりその事を忘れていた。
翌日、いつものように起きた夏目がふと机の上を見遣り、ぎょっとして身体を固まらせた。
(明らかに……増えてる)
「どうかしたんですか」
「これ、誰のかしらねぇ」
声を掛けると、頬に手を当てた塔子の独り言のような問いが返ってくる。
見れば彼女が膝を折るすぐ傍には、たたき割られたかのような陶器の欠片が落ちている。粉々に砕けた茶碗を見た夏目は、少しだけ痛そうな顔をして、それから何か尊いものを見るような顔つきでその欠片を拾い上げた。
「これは、俺のです。とても大切な……」
――その妖怪の名は、影茶碗と言うそうだ。
事の始まりは数日前。夏目はふと、ぱたぱたと家の中を駆け回る足音に気が付いた。
妖怪が家の中に居るなんて、と青い顔で部屋に戻った夏目が座布団の上で丸くなっている先生をつかまえると、2週間も前から住み着いていたと、先生はさも当たり前のように告げた。言外に気付かなかった自分を詰るような雰囲気に、まったく役目を果たしていない白くころころした用心棒もどきをため息混じりに見つめた。
「にゃんだ夏目、害はないから放っておいたのだ。役立たずと蔑む様な目で見るのはやめろっ!」
「後から言われても微妙だよ、先生」
聞いた限りでは、放っておいても大丈夫そうだったので、夏目はとりあえず無視を決め込むことにした。躍起になって追いかけまわしても、かえって「心配」をかける結果になる。これまでであれば「迷惑」と言っていたところだが、夏目も藤原夫妻の優しさは身を持って実感している。必要以上の遠慮はそれを無碍にするのと同じだ。
「気まぐれにその家の者の、災厄の身代わりとなることもあるらしいぞ」
「ふぅん……妖怪にも良い奴はいるんだな」
「何を言っている、目の前にその最たる者がいるだろうが」
「……どこだ?」
「にゃんだとーーっ!!!」
それから数日後。大きな妖怪に襲われた夏目が、寸でのところで大けがを免れた、と言う事があった。
大きく口を開けた妖怪を目の前にした時、ダメだ、やられると覚悟をした。咄嗟の事に逃げることもできなかったはずだ。
目を瞑った夏目を咀嚼しようと、人間一人くらいは余裕で丸飲みしそうな程大きく開かれた口を見せつけて大妖怪が襲いかかった。
勢いよく閉じられた口の中で、ガチッと固いものを砕いた音がした。一瞬怯んだ大妖怪が再び襲いかかろうというところで、先生が間に入り追い払ってくれたようだった。
倒れ込んだ夏目は、自分の身体が襲われたはずなのに大きな怪我もない事に気が付いた。
確かに骨が砕かれたような音を聞いたはずだが、起き上がってみるとそんな痛みはどこにもなかった。
(あの音はいったい――)
「もの好きな奴だな」
割れた茶碗を集めている夏目に、先生がふんと鼻を鳴らして言った。
「だって、こいつは俺を守ってくれたんだろう。ちゃんと供養してやりたいんだ」
一つ一つ、欠片を丁寧に拾い上げていく。辺りを見渡して全て拾った事を確認すると、それを大事に持って部屋へ引きあげた。
カバンを置き、机の上にハンカチを広げてその上に集めた欠片を置いていった。大きさは様々だったが、それ程複雑に割れてはいないようで、パズルのように合わせる事ができそうだった。
試しに一つを取って、それに合う相手を探す。探せばすぐ近くに鋭角に尖った先に合う、くの時に欠けた欠片があったのでそっと合わせた。
「そんなことをしても元には戻らんぞ」
「わかってるよ。でも、身代わりになってくれたんだ」
「……ほどほどにしておけ、夏目」
「どういうことだ?先生」
「お前は私に比べたらちんけなものだが、人にしては力を持ち過ぎている。元には戻らんが、お前が持っていると言うだけで妙なことになりかねない」
「それは、これ自体が力を持つという事か?」
「そうかもしれないし、何も起こらんかもしれん」
「なんだ、曖昧だな。」
「起こりうる可能性を指摘してやったのだっ。お前は面倒事を引き寄せやすいからな!」
白く丸い身体を跳ねさせて捲し立てる先生の言葉に、身に覚えのあり過ぎる夏目は思わずぐっと詰まった。
「それも早く捨ててしまえっ。そんなもの取っておいても仕方ないだろう」
「っ、にゃんこ先生は薄情すぎる!なんて冷たいやつなんだ!」
「にゃにぃ!」
欠片を掻き寄せてハンカチで包み、立ち上がった夏目に、先生は片目でちらりと視線を投げた。
「それをどうするつもりだ?」
「庭に埋めてくる。」
「…フン、情けを掛けおって」
先生はふすまを開けて出て行く夏目に背を向けて、小さな丸い尻尾を不満げに揺らした。
茶碗の墓は、夏目の部屋から見える庭の片隅に作った。
邪魔にならないように小さな小山にして花を添えただけの簡素なものが、その時夏目に出来た精一杯だった。
その日の夜、風呂から上がった夏目が部屋に戻ると、先生が窓際で小さな身体を起こして外を眺めていた。
パタン、と後ろ手にふすまを閉めた音に気付いた先生が、鼻を鳴らして窓枠から前足を下ろした。
「なんだよ先生。まだ怒っているのか?」
「怒ってなどおらん」
「どうみたって不機嫌じゃないか」
「お前がひ弱なくせに余計な世話ばかりするからだっ」
「なんでそんなに突っかかるんだよ、先生」
先生の怒る意図がいまいち掴み切れず理由を問いただした夏目だったが、先生はツンと顔を逸らして無視をするばかりだった。
「……もう、いいから寝るぞ」
頑なな態度に夏目がため息交じりに声を掛けると、先生はしぶしぶといった体で夏目の枕元まで歩いてくる。不機嫌をありありと表現している先生に、夏目はやれやれと肩をすくめた。
「今日は寒いから中に入るか?」
どう機嫌を取ろうかと考えてそう誘いを掛けたが、やはり返ってくるのは無言で、夏目は仕方なくそのまま布団をめくった。
すると夏目が入ろうとした隙に先生がその内側にもぐりこんできて、夏目の身体の横で丸くなった。
「お前は不用意に優しさを振り撒きすぎなんだ」
「……気を付けるよ」
布団の中から小さく聞こえた文句には、不器用な優しさが滲んでいた。
「貴志くーん、朝ご飯出来てるわよー」
「はーい」
既に起きて支度を済ませていた夏目は、階下から呼びかける塔子の声に応えながら机の横に置いたカバンを取ろうとした。
「あれ?」
伸ばした手を止めて、机の上に転がるものを摘みあげる。幾つか散らばるそれは、陶器の欠片のようだった。昨晩はこんなものあっただろうか。
「夏目、早くしないと食いそびれるぞ」
ぐずぐずするなと背後から先生に追い立てられて、夏目は欠片を元の場所へ置くと、カバンを掴んで少し急いで部屋を出た。
(あれってもしかして昨日の茶碗か?)
通学路を行きながら、夏目は机の上の欠片について考えていた。
全部拾って庭に埋めたと思っていたが、それが残っていたのだろうか。
きっとそうに違いないと納得した夏目は、机の上の欠片はまた今度一緒に埋めてやろうと思いながら、しかし家に帰る頃にはすっかりその事を忘れていた。
翌日、いつものように起きた夏目がふと机の上を見遣り、ぎょっとして身体を固まらせた。
(明らかに……増えてる)