夏目と茶碗
(……まさか)
それはまるで、生きている反応を期待しているかのようだ。
この時、夏目はようやく茶碗の望みの本意に気がついて、言葉を失った。
「お前が思っているよりこいつは強かだぞ。力のあるお前が直せば、生き返るとでも思っていたんだろうさ」
いつの間にか隣に並んだ先生が、腰を下ろして言った。
先生が止めておけと言っていたのはこのことだったのか。夏目は自分の浅はかさに唇を噛んだ。
「……ごめん、俺……俺にそんな力はないよ」
拳を握って、小さな声で力なく告げる。聞こえていないのか、尚も茶碗は接着材で修復された跡をそっと足で押しては、動き出さないかと期待しているようだった。
けれど一度壊れた茶碗は元には戻らないし、もう二度と動くことはない。
(俺が期待させてしまったのか――)
「ごめんな……」
何度も何度も、触っては反応を待っている茶碗にゆっくりと手を伸ばして、その身体を抱き上げた。
繰り返し謝りながら目を伏せると、こぼれた雫が茶碗に落ちた。
涙を受けた茶碗はふるりと体を震わせて、そろりと夏目を見上げると、やがて何か悟ったように静かになった。
それから数日の間、気落ちした様子の茶碗は修復した茶碗の隣で眠り続けていた。
夏目が起きて出かける時も、帰宅して部屋に戻った時も、目を開けて顔を動かすような仕草は見せるけれど、結局そのまま立ち上がることもなく、また目を閉じて眠りに就く。
そんな茶碗をずっと見ていた夏目は、ある朝、学校へ行く支度をしながら、机の上で目を閉じている茶碗に声を掛けた。
「ちょっといいか」
夏目の声に茶碗がゆっくりと目を開けた。
茶碗の丸みを帯びた形に沿って指の背でそっと撫でると、少しだけくすぐったそうに目を細めた。
「お前の大事な友人のことなんだけど、もし良かったら茶碗供養に持っていかないか」
ここ数日、夏目は学校の帰りに図書館に寄って調べ物をしていた。どうしてやるのが一番いいのか。元気のない茶碗は夏目も見ていて心が痛んだ。それから、自分の身代りになった茶碗を、どうにかしてやりたい気持ちもあった。
「どうかな」
茶碗の前に膝を付いて目線を合わせるようにすると、茶碗はこくりと頷いた。
ほっとした心地で夏目はもう一度茶碗を撫でて、ありがとうとほほ笑んだ。
図書館でいろいろな本を見つつ順番待ちをしていたPCがようやく空いて、それらしいキーワードを検索をしてみたら「茶碗供養」という単語を見つけた。さらに詳細を調べると、どうやら夏目の行けそうな範囲でそういう事をやっているところがあるらしい。
ちょうどこの週末に行っているようだったので、夏目はそれに行こうと茶碗に伝えた。
「いいか?」
持っていくには裸ではいけないだろうと、修復した茶碗がちょうど入りそうな箱にハンカチを敷いてそこに入れて行くことにした。
箱に仕舞う前に、夏目が茶碗に声を掛ける。用意の邪魔にならないように見ていた茶碗が、自分を見上げてしっかりと頷いたのを見ると、夏目はつぎはぎされた茶碗を優しく取り上げて箱に入れた。
「じゃあ、行くよ」
立ち上がるとカバンにするりを入った先生を肩から提げて、その反対側に箱を入れた袋を持つ。
掛けた声に呼応するように、ぴょんと肩に飛び乗った茶碗に気を付けながら夏目は出かけた。
供養の受付所まで行くと、人の良さそうな婦人が夏目の差し出した箱を見て嬉しそうに笑った。
「まぁ丁寧に。それじゃあお預かりしますね」
「はい、宜しくお願いします」
夏目は記帳や簡単な手続きを済ませ、頭を下げてそこを後にする。
辺りでは、茶碗にとどまらず、広く陶器を扱った市が開かれていた。瀬戸や有田のものが多いようだが、場所らしく小代焼なども見られた。目に鮮やかな陶器は見ているだけで楽しそうだったが、夏目はにぎやかな雰囲気に混じる気が起こらず、目的を果たすとそのままその場所を後にした。
入口の所までくると、あまりにあっけなく済んでしまって、夏目はこれで終わりかと後ろ髪を引かれるように受付の辺りを覗いたけれど、既にしまわれているのか夏目の預けた箱は見えなかった。
後は、もう帰るだけだ。このままここにいることもできないので、少し名残惜しげにしつつも、帰るべく敷地の周りをぐるっと囲うように立つ塀に沿って歩いた。すると、茶碗がぴょいと肩から塀の上に飛び乗った。
「どうした?」
夏目の問いかけに数回瞬きをしたかと思えば、そのまま茶碗は後ろに向って走り出した。
「あっ」
咄嗟に出た声に、茶碗が再び振り返る。けれどそこから動こうとはしない。しばらく見つめあって、夏目は理解した。
「ーー行くのか」
茶碗がこくこくと頷く。突然の別れに、咄嗟には上手く言葉が出てこなかった。
「気を付けて……またな」
なんとかそれだけ言った夏目が、挨拶するように手をそっと持ち上げた。
最後にこくりと頷いた茶碗は、くるっと後ろを向くと塀の上をぱたた、と駆けて行った。
見えなくなるまで、と思ってその場に止まって見ていると、茶碗は長い一本道の塀の上を道の端まで行ったところでふっと消えた。
(元気で――)
「帰るぞ、夏目」
「あぁ」
カバンの中から、それまでずっと大人しくしていた先生が夏目をけしかけた。
夏目は深呼吸をひとつして、カバン越しに先生を撫でるとゆっくりと歩き出した。
おまけ
「おい、夏目、そこの角を曲がれ」
「家は真っすぐだぞ? 先生」
「早朝から働かせた駄賃だ。饅頭買ってくれ」
「なんだよ先生はずっと鞄に入ってただけじゃないか」
「バカモノッ用心棒として周囲に気を配ってだな――」
「はいはい、わかったから」
「おいっだからその角を曲がれと」
「財布持ってきてないんだから買えないよ」
「にゃっにゃに! 外出するなら財布くらい持てっこのもやしがっ」
「もやしって! もやしは関係ないだろ!」