ひらり、青春
昨今の喫煙者への風当たりは厳しい。地球温暖化だと世間は騒いでいるが、ここだけ氷河期だ。ましてや、富裕層の子息令嬢が集まる名門私立正十字学園高等学校においてはその風は極寒だ。
青少年の健全な育成のため、蝶よ花よと育てられたお坊ちゃまお嬢様を世俗の毒に当たらせぬために教職員用の喫煙室などは勿論なく、職員会議でも禁煙が促される何とも世知辛いご時勢だ。
経験知識ともに豊富で、教師、生徒、保護者からも人望厚く、非の打ち所のない聖職者、藤本獅郎もその極寒の風を真っ向から受けていた。
(ホント、世知辛いにも程がある)
コツコツと静まり返った校舎を一人歩く。今は授業時間で、時おり教室から教師の声が聞こえるが何と言っているかまでは分からない。元々育ちが良い子どもたちばかりが集まっている学校で、授業中に私語などする生徒などいない。穏やかな静寂の中、目指すのは一番空に近い場所だ。
「っだぁー、着いたぜー」
上った階段の数など数えたくもない。重たい扉を開け放ち、視界に広がるのは一面の青。周囲を囲む柵代わりの緑と、広々とした石床。
何処か堅苦しい校内に比べ、屋上のなんと清々しいことか。
「まったく、一服するにも苦労しなけりゃいけないなんざ、嫌な世の中だぜ」
大きな音を立て扉が閉まる。愚痴をこぼしながら、奥へ進もうと踏み出したとき。
一陣の風。そして。
バサリ。
「あ?」
視界が一瞬にして暗くなった。いや、ピンクになった。
あれ、目を瞑ったか? いやいやまさか。目を瞑ったところでピンクではあるまい。思わず自問自答をしてしまったとき、上から降ってくる、軽やかな声。
「わりぃ! 大丈夫か?」
ずるりと顔から落ちたのは、ピンクの布。布と言うより、日頃良く見慣れたもの。
「……スカート」
正十字学園の女子用制服のスカート。奇抜な理事長の奇抜なアイデアにより作られたその色合いは他ではお目にかかれまい。
そのスカートが今足元に落ちている。
(これはあれか、さっきまで俺の顔面を覆っていたのはこれだったってことか?)
それ以外にあるまい。いやいやいやいや、そうなるとこれの持ち主はスカートを履いていないことになる。
(そんなまさか。だがしかし)
スカートを履いていないということは、それはつまり。
「なぁ、悪いんだけどそれ拾ってくんねぇ?」
背後から掛かる声にはっと意識が戻る。この際、何でこの時間にこんな所にいるのかとか、そもそもなんでスカートが飛んできたのかとか、そんなことは脇に置いておく。
問題はこのスカートの持ち主である、この声の少女が今どんな状態であるかと言うことだ。
沸騰した頭のまま、そっとスカートを拾い上げ、そのまま背後を振り向かず背後に差し出す。
「ありがと。あー、でも届かねぇ。もっとちゃんと上にあげてくれねぇ?」
限界まで腕を上にあげるが、それでも届かなかったらしい。小さく唸る声が聞こえた。
「あー、やっぱ無理だ。下降りるから、ちょっとそこ退いてくれ」
「はぁ!?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまったが、スカートの主は気にもせず飛び降りてしまった。着地する音と、近付いてくる足音にスカートを掴む手に力が篭る。
「ありがと。悪かったな」
手からスカートが抜き取られた。爆弾処理などしたことはないがそれくらいの危険物の処理を終えた気分だ。知らず入っていた肩の力が抜け、大きく溜め息をつく。
「どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたも……!」
思わず後ろを振り向けば、思いのほか近くにあった顔に後ずさる。
きょとんと見開かれた二つの大きな青。
長い髪が縁取る真白い顔。
少々間抜けに小さく開かれた唇は桃色で、やけに鮮やかに見えた。
そして細い首があり、綺麗に浮き出た鎖骨があり、水色のタンクトップへと続く。
――水色の、タンクトップ。
本来なら白いワイシャツやらカーディガンやらストライブのリボンやらがあるはずの首元胸元。
それが、タンクトップ。
思わず視線がそこに行ってしまえば、そこからは済し崩しで。
右肩にかけられたピンクのスカート。
ふっくらと盛り上がった水色の山。
ヘソが見えそうなタンクトップの裾。
紺色の薄っぺらいショートパンツ。
そこから伸びる真白い太ももふくらはぎ。
極めつけの小さな素足。
視線は上から下へ、そしてまた上へ。
「何だ? 俺の顔に何かついてるか?」
さも不思議そうに尋ねる少女に思わず腹から声を出す。
「服を着やがれこの馬鹿娘!!」
屋上の給水塔にくくりつけられたワイシャツが、午後の青空にたなびいていた。
「まったくよー、いきなり馬鹿とか失礼なやつだな」
「そもそも生徒が授業にも出ずこんなとこにいるのが問題なんだよ、不良娘」
「うるせぇ!」
給水塔の影に二つ並ぶ影。スカートの持ち主の少女は獅郎の言葉に怒りながらも制服を着込んでいく。それを背に座り込みながら紫煙を燻らす獅郎は、ぼんやりと空を見上げていた。
久しぶりに腹から声を出した。この学校の生徒達はあまり怒鳴られるようなことはしないし、同僚との諍いもない。悪縁である友人兼理事長はまた別だが。
少女はこの金持ち学園には珍しいタイプの生徒だ。砕けた口調と言うより、自分のことを「俺」と言う男のような言葉遣いに破天荒な行動。金持ちにある甘やかされすぎた自由奔放さではなく、まさにお転婆のじゃじゃ馬娘だ。
「ほら、これでいいだろ」
振り向けばワイシャツとスカート姿があった。リボンもしていないし、シャツは出ているし、ボタンも二つ目まで開けているが、先ほどまでの格好に比べれば大分マシだ。判断基準が低すぎるというのは言うまい。
丸められた靴下をポケットに仕舞い、上履きを片手に持ちながら少女は隣に座った。二人の距離は空いていて、そこを吹き抜ける風が心地良かった。
「アンタ、俺がサボってんの何も言わねぇんだな。教師だろ?」
不意に、少女が呟いた。視線は空に向けられ、青い瞳に青い空が映りこんでいた。
それを横目で見て、同じように空に視線を戻す。紫煙は高く上り、そのうち雲に溶け合うのではないのだろうか。
「ハッ、言ったところで聞くのかよ」
「聞かねぇ」
鼻で笑ってそう言えば、隣から小さく笑う声がする。怒ったり、笑ったり、くるくると良く変わる表情だ。
「お前なんであんな格好してたんだ。衣替えの季節だが、下着になるにはまだ早ぇだろう」
「あー、水浴びして服濡れたんで乾かしてたんだよ。つーか下着じゃねぇし! ブラとパンツになってねぇだろうが」
「お前な……年頃の娘がブラだのパンツだの恥ずかしげもなく言ってんじゃねぇよ!」
この羞恥心のなさ。小学生、いや幼稚園の女子の方がよほど女らしいだろう。聞いているこっちが恥ずかしくなり煙草のフィルターを噛み潰す。
「そもそも高校生が水浴びとか、ガキか」
「俺もそう思う」
ケラケラと笑う声が本当に愉快げで、煙を吐く息も溜め息に変わる。彼女にあってまだ十数分だが一日分の気力を使った気分だ。
「なぁ、アンタ何教えてんだ?」
「数学」
「うへぇあ。数学。公式? だっけ。あれとか呪文にしか聞こえねぇよ」
「答えが一つしかねぇから楽なんだよ」
青少年の健全な育成のため、蝶よ花よと育てられたお坊ちゃまお嬢様を世俗の毒に当たらせぬために教職員用の喫煙室などは勿論なく、職員会議でも禁煙が促される何とも世知辛いご時勢だ。
経験知識ともに豊富で、教師、生徒、保護者からも人望厚く、非の打ち所のない聖職者、藤本獅郎もその極寒の風を真っ向から受けていた。
(ホント、世知辛いにも程がある)
コツコツと静まり返った校舎を一人歩く。今は授業時間で、時おり教室から教師の声が聞こえるが何と言っているかまでは分からない。元々育ちが良い子どもたちばかりが集まっている学校で、授業中に私語などする生徒などいない。穏やかな静寂の中、目指すのは一番空に近い場所だ。
「っだぁー、着いたぜー」
上った階段の数など数えたくもない。重たい扉を開け放ち、視界に広がるのは一面の青。周囲を囲む柵代わりの緑と、広々とした石床。
何処か堅苦しい校内に比べ、屋上のなんと清々しいことか。
「まったく、一服するにも苦労しなけりゃいけないなんざ、嫌な世の中だぜ」
大きな音を立て扉が閉まる。愚痴をこぼしながら、奥へ進もうと踏み出したとき。
一陣の風。そして。
バサリ。
「あ?」
視界が一瞬にして暗くなった。いや、ピンクになった。
あれ、目を瞑ったか? いやいやまさか。目を瞑ったところでピンクではあるまい。思わず自問自答をしてしまったとき、上から降ってくる、軽やかな声。
「わりぃ! 大丈夫か?」
ずるりと顔から落ちたのは、ピンクの布。布と言うより、日頃良く見慣れたもの。
「……スカート」
正十字学園の女子用制服のスカート。奇抜な理事長の奇抜なアイデアにより作られたその色合いは他ではお目にかかれまい。
そのスカートが今足元に落ちている。
(これはあれか、さっきまで俺の顔面を覆っていたのはこれだったってことか?)
それ以外にあるまい。いやいやいやいや、そうなるとこれの持ち主はスカートを履いていないことになる。
(そんなまさか。だがしかし)
スカートを履いていないということは、それはつまり。
「なぁ、悪いんだけどそれ拾ってくんねぇ?」
背後から掛かる声にはっと意識が戻る。この際、何でこの時間にこんな所にいるのかとか、そもそもなんでスカートが飛んできたのかとか、そんなことは脇に置いておく。
問題はこのスカートの持ち主である、この声の少女が今どんな状態であるかと言うことだ。
沸騰した頭のまま、そっとスカートを拾い上げ、そのまま背後を振り向かず背後に差し出す。
「ありがと。あー、でも届かねぇ。もっとちゃんと上にあげてくれねぇ?」
限界まで腕を上にあげるが、それでも届かなかったらしい。小さく唸る声が聞こえた。
「あー、やっぱ無理だ。下降りるから、ちょっとそこ退いてくれ」
「はぁ!?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまったが、スカートの主は気にもせず飛び降りてしまった。着地する音と、近付いてくる足音にスカートを掴む手に力が篭る。
「ありがと。悪かったな」
手からスカートが抜き取られた。爆弾処理などしたことはないがそれくらいの危険物の処理を終えた気分だ。知らず入っていた肩の力が抜け、大きく溜め息をつく。
「どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたも……!」
思わず後ろを振り向けば、思いのほか近くにあった顔に後ずさる。
きょとんと見開かれた二つの大きな青。
長い髪が縁取る真白い顔。
少々間抜けに小さく開かれた唇は桃色で、やけに鮮やかに見えた。
そして細い首があり、綺麗に浮き出た鎖骨があり、水色のタンクトップへと続く。
――水色の、タンクトップ。
本来なら白いワイシャツやらカーディガンやらストライブのリボンやらがあるはずの首元胸元。
それが、タンクトップ。
思わず視線がそこに行ってしまえば、そこからは済し崩しで。
右肩にかけられたピンクのスカート。
ふっくらと盛り上がった水色の山。
ヘソが見えそうなタンクトップの裾。
紺色の薄っぺらいショートパンツ。
そこから伸びる真白い太ももふくらはぎ。
極めつけの小さな素足。
視線は上から下へ、そしてまた上へ。
「何だ? 俺の顔に何かついてるか?」
さも不思議そうに尋ねる少女に思わず腹から声を出す。
「服を着やがれこの馬鹿娘!!」
屋上の給水塔にくくりつけられたワイシャツが、午後の青空にたなびいていた。
「まったくよー、いきなり馬鹿とか失礼なやつだな」
「そもそも生徒が授業にも出ずこんなとこにいるのが問題なんだよ、不良娘」
「うるせぇ!」
給水塔の影に二つ並ぶ影。スカートの持ち主の少女は獅郎の言葉に怒りながらも制服を着込んでいく。それを背に座り込みながら紫煙を燻らす獅郎は、ぼんやりと空を見上げていた。
久しぶりに腹から声を出した。この学校の生徒達はあまり怒鳴られるようなことはしないし、同僚との諍いもない。悪縁である友人兼理事長はまた別だが。
少女はこの金持ち学園には珍しいタイプの生徒だ。砕けた口調と言うより、自分のことを「俺」と言う男のような言葉遣いに破天荒な行動。金持ちにある甘やかされすぎた自由奔放さではなく、まさにお転婆のじゃじゃ馬娘だ。
「ほら、これでいいだろ」
振り向けばワイシャツとスカート姿があった。リボンもしていないし、シャツは出ているし、ボタンも二つ目まで開けているが、先ほどまでの格好に比べれば大分マシだ。判断基準が低すぎるというのは言うまい。
丸められた靴下をポケットに仕舞い、上履きを片手に持ちながら少女は隣に座った。二人の距離は空いていて、そこを吹き抜ける風が心地良かった。
「アンタ、俺がサボってんの何も言わねぇんだな。教師だろ?」
不意に、少女が呟いた。視線は空に向けられ、青い瞳に青い空が映りこんでいた。
それを横目で見て、同じように空に視線を戻す。紫煙は高く上り、そのうち雲に溶け合うのではないのだろうか。
「ハッ、言ったところで聞くのかよ」
「聞かねぇ」
鼻で笑ってそう言えば、隣から小さく笑う声がする。怒ったり、笑ったり、くるくると良く変わる表情だ。
「お前なんであんな格好してたんだ。衣替えの季節だが、下着になるにはまだ早ぇだろう」
「あー、水浴びして服濡れたんで乾かしてたんだよ。つーか下着じゃねぇし! ブラとパンツになってねぇだろうが」
「お前な……年頃の娘がブラだのパンツだの恥ずかしげもなく言ってんじゃねぇよ!」
この羞恥心のなさ。小学生、いや幼稚園の女子の方がよほど女らしいだろう。聞いているこっちが恥ずかしくなり煙草のフィルターを噛み潰す。
「そもそも高校生が水浴びとか、ガキか」
「俺もそう思う」
ケラケラと笑う声が本当に愉快げで、煙を吐く息も溜め息に変わる。彼女にあってまだ十数分だが一日分の気力を使った気分だ。
「なぁ、アンタ何教えてんだ?」
「数学」
「うへぇあ。数学。公式? だっけ。あれとか呪文にしか聞こえねぇよ」
「答えが一つしかねぇから楽なんだよ」