空に描く
1.
皇の鍵から出てきたアストラルを真っ先に出迎えたのは、雲一つない大空とまばゆく輝く太陽だった。皇の鍵の世界に一晩中いたせいで暗闇に慣れ切っていた目には、それらがいつもより刺激を増して感じ取れる。
周囲の状況を把握しようとするアストラルに、今度は真正面から突風が吹いて来た。思わずアストラルは右腕で顔を覆い、強く吹き付けて来る風をやり過ごす。
ひとまず風が治まって目を開けてみれば、そこはいつもの教室ではなかった。学校のテラスだ。円形に建てられた校舎の狭間からは、ハートランドシティの街並みとハートランドのタワーが見える。
今日は半日授業だったのか。いや、カレンダーからしてそんなはずは……。そこまで考えて、アストラルは眼下に視線をやった。
テラスの柵に手を掛けて、遊馬が彼方の風景を眺めていた。何も喋らずにただずっと。赤と黒の髪の毛が、さやさやと風になびいている。
〈遊馬〉
「よお、アストラル」
遊馬がアストラルを見やったのは一瞬で、彼は再びテラスの向こう側に視線を戻した。うーん、どうしようかな、と何やら長いこと迷っている様子だったが、
「よーし、ここにしよ」
やっと踏ん切りをつけて遊馬はテラスに腰を下ろした。
傍の柵に立て掛けていた大きな板に遊馬の手が伸びる。板には真っ白い紙が金具で挟んであった。遊馬は鉛筆を手に取ると、おもむろにその紙に線を引いた。紙の空白にすっと一本引かれた線は、どことなく曲がっていて真っ直ぐとは言い難い。しかし、筆跡には迷いや躊躇いは微塵もなかった。同じ要領で遊馬は紙にいくつもの線を引く。線はたまに消しゴムでごしごし擦られ消えてしまうが、残った分岐から再び空白へと手を伸ばす。
アストラルは遊馬の作業を上方からしばらく観察していたが、空白にへのへのもへじが悪戯描きされてすぐに消されたところで遊馬に尋ねてみた。
〈遊馬。それは君の新しい遊びか?〉
すると、遊馬がいきなり板に向かってつんのめった。額が板にぶつかってこつんと小さく立てた音が、何とも間抜けだ。違うのか、とアストラルが首を傾げていると、どうにか体勢を元に戻した遊馬は唇を尖がらせ、じと目でアストラルを見上げてきた。
「あのな。お前にはオレがいっつも遊んでる風に見えるのかよ」
遊馬曰く、今は美術の授業中なのだという。
「どこでもいいから、学校で見た何かを絵に描けって課題なんだよ。風景とか物とか色々。ちなみに、屋上は危ないからって速攻で却下されちまったぜ。残念だなあ」
残念としきりに嘆く割に、彼の口調はあっけらかんとしていた。
授業中だと言う遊馬の言葉は本当で、アストラルが周囲を見渡してみれば遊馬のクラスメートたちが方々に散らばっているのが分かった。めいめいにあの板――画板というらしい――を手に、ある者は作業を開始し、またある者は絵の対象を探し求めてあちこちうろつき回っている。
アストラルは、眼下で着々と進む作業を腕組みをして遊馬の頭上から見守る。鉛筆は気まぐれに画用紙の上で立ち止まっては、再び線を走らせる。消しては描き、描いては消しを繰り返す。筆圧が強かったためか紙の表面には線の跡がうっすら残った。
筆跡が余りに無秩序だったので、始めのうちアストラルは遊馬の意図がつかめないでいた。それでも、線が増えて行くに連れて見覚えのある形が絵の上に浮かび上がる。
〈分かったぞ。君の描いているのは、ここから見た学校のテラスと街の風景。そうだな〉
「ぴんぽーん、大正解」
正解を言い当てたアストラルに、遊馬は太陽のような満面の笑みを見せた。
柵の透明な板越しに中庭で小鳥が手を振っているのに気付き、遊馬も手をぶんぶん振り返した。その様子をアストラルは横目で見ていたが、
〈――だが、どうも納得がいかない〉
顎に手を当て、今のやり取りで生じた疑問を口に出す。
「何でだよ?」
〈この世界には、便利な記憶媒体が数多く存在する。それを利用すれば短時間で君の課題を終わらせることができるはずだ。にも関わらず、手描きという原始的な方法を使うとは、非効率的にも程がある〉
「カードにだって写真じゃなくて絵が描かれてるだろ。文字だけのカードじゃデュエルしたってつまんねえじゃねえか」
〈その意見には同意する。しかし、それとこれとは別問題だ。デュエルという明確な必要性があるならともかく、時間と手間暇をかけて目の前にある物を描き写す行為に意味はあるのか?〉
「それは、その……」
アストラルの問いの答えをしばらくの間うんうん唸って考え込んでいた遊馬だったが、やがてテラスの床にごろりと背を投げ出した。持っていた鉛筆を空に掲げて、遊馬は言う。
「こーりつてきとかそんなんじゃなくてさ。人間は、色々な理由で絵を描いたりすんの。思い出や、その、何かを形にして残すためにとか」
〈何か?〉
「えーと、ほら、何かだよ。オレにはそれっきゃ言いようがねえ」
〈そうか〉
「お前にはねえのかよ。ずっと残しときたい大切なものってのは」
〈残したい……?〉
アストラルには分からなかった。
この世界の住人ではない。実体のない手は普通のカードに触れることさえできない。その上、大切な記憶のピースの大部分を失ってしまっている。そんな自分に大切なものなどあるのだろうか、と。
皇の鍵から出てきたアストラルを真っ先に出迎えたのは、雲一つない大空とまばゆく輝く太陽だった。皇の鍵の世界に一晩中いたせいで暗闇に慣れ切っていた目には、それらがいつもより刺激を増して感じ取れる。
周囲の状況を把握しようとするアストラルに、今度は真正面から突風が吹いて来た。思わずアストラルは右腕で顔を覆い、強く吹き付けて来る風をやり過ごす。
ひとまず風が治まって目を開けてみれば、そこはいつもの教室ではなかった。学校のテラスだ。円形に建てられた校舎の狭間からは、ハートランドシティの街並みとハートランドのタワーが見える。
今日は半日授業だったのか。いや、カレンダーからしてそんなはずは……。そこまで考えて、アストラルは眼下に視線をやった。
テラスの柵に手を掛けて、遊馬が彼方の風景を眺めていた。何も喋らずにただずっと。赤と黒の髪の毛が、さやさやと風になびいている。
〈遊馬〉
「よお、アストラル」
遊馬がアストラルを見やったのは一瞬で、彼は再びテラスの向こう側に視線を戻した。うーん、どうしようかな、と何やら長いこと迷っている様子だったが、
「よーし、ここにしよ」
やっと踏ん切りをつけて遊馬はテラスに腰を下ろした。
傍の柵に立て掛けていた大きな板に遊馬の手が伸びる。板には真っ白い紙が金具で挟んであった。遊馬は鉛筆を手に取ると、おもむろにその紙に線を引いた。紙の空白にすっと一本引かれた線は、どことなく曲がっていて真っ直ぐとは言い難い。しかし、筆跡には迷いや躊躇いは微塵もなかった。同じ要領で遊馬は紙にいくつもの線を引く。線はたまに消しゴムでごしごし擦られ消えてしまうが、残った分岐から再び空白へと手を伸ばす。
アストラルは遊馬の作業を上方からしばらく観察していたが、空白にへのへのもへじが悪戯描きされてすぐに消されたところで遊馬に尋ねてみた。
〈遊馬。それは君の新しい遊びか?〉
すると、遊馬がいきなり板に向かってつんのめった。額が板にぶつかってこつんと小さく立てた音が、何とも間抜けだ。違うのか、とアストラルが首を傾げていると、どうにか体勢を元に戻した遊馬は唇を尖がらせ、じと目でアストラルを見上げてきた。
「あのな。お前にはオレがいっつも遊んでる風に見えるのかよ」
遊馬曰く、今は美術の授業中なのだという。
「どこでもいいから、学校で見た何かを絵に描けって課題なんだよ。風景とか物とか色々。ちなみに、屋上は危ないからって速攻で却下されちまったぜ。残念だなあ」
残念としきりに嘆く割に、彼の口調はあっけらかんとしていた。
授業中だと言う遊馬の言葉は本当で、アストラルが周囲を見渡してみれば遊馬のクラスメートたちが方々に散らばっているのが分かった。めいめいにあの板――画板というらしい――を手に、ある者は作業を開始し、またある者は絵の対象を探し求めてあちこちうろつき回っている。
アストラルは、眼下で着々と進む作業を腕組みをして遊馬の頭上から見守る。鉛筆は気まぐれに画用紙の上で立ち止まっては、再び線を走らせる。消しては描き、描いては消しを繰り返す。筆圧が強かったためか紙の表面には線の跡がうっすら残った。
筆跡が余りに無秩序だったので、始めのうちアストラルは遊馬の意図がつかめないでいた。それでも、線が増えて行くに連れて見覚えのある形が絵の上に浮かび上がる。
〈分かったぞ。君の描いているのは、ここから見た学校のテラスと街の風景。そうだな〉
「ぴんぽーん、大正解」
正解を言い当てたアストラルに、遊馬は太陽のような満面の笑みを見せた。
柵の透明な板越しに中庭で小鳥が手を振っているのに気付き、遊馬も手をぶんぶん振り返した。その様子をアストラルは横目で見ていたが、
〈――だが、どうも納得がいかない〉
顎に手を当て、今のやり取りで生じた疑問を口に出す。
「何でだよ?」
〈この世界には、便利な記憶媒体が数多く存在する。それを利用すれば短時間で君の課題を終わらせることができるはずだ。にも関わらず、手描きという原始的な方法を使うとは、非効率的にも程がある〉
「カードにだって写真じゃなくて絵が描かれてるだろ。文字だけのカードじゃデュエルしたってつまんねえじゃねえか」
〈その意見には同意する。しかし、それとこれとは別問題だ。デュエルという明確な必要性があるならともかく、時間と手間暇をかけて目の前にある物を描き写す行為に意味はあるのか?〉
「それは、その……」
アストラルの問いの答えをしばらくの間うんうん唸って考え込んでいた遊馬だったが、やがてテラスの床にごろりと背を投げ出した。持っていた鉛筆を空に掲げて、遊馬は言う。
「こーりつてきとかそんなんじゃなくてさ。人間は、色々な理由で絵を描いたりすんの。思い出や、その、何かを形にして残すためにとか」
〈何か?〉
「えーと、ほら、何かだよ。オレにはそれっきゃ言いようがねえ」
〈そうか〉
「お前にはねえのかよ。ずっと残しときたい大切なものってのは」
〈残したい……?〉
アストラルには分からなかった。
この世界の住人ではない。実体のない手は普通のカードに触れることさえできない。その上、大切な記憶のピースの大部分を失ってしまっている。そんな自分に大切なものなどあるのだろうか、と。