空に描く
2.
「徳之助の帽子ってどんなんだったっけかなー? よく会ってんのにこういう時に限って思い出せないんだよなぁ」
空中に鉛筆で帽子のシルエットを何度もなぞり、ああでもないこうでもないと遊馬が思案を繰り返す。そんな光景を、アストラルはテラスの柵に腰かけてじっと見下ろしていた。
下絵を描く時に消しゴムでごしごし消し過ぎたので、遊馬の画用紙はところどころ毛羽立ってしまっている。それでも建物や街並みを粗方描き終えた遊馬は、今度はその風景の中に人物を描き込み始めた。
ナンバーズクラブの面々に、先生や、デュエルをしにエントランスに集う生徒たち。数は既に放課後デュエルを彷彿とさせるくらいにまで増えていた。筆跡はやはり拙く、小指にも満たない大きさではあるが、人物の特徴だけはよく表されている。
帽子のシルエットが大きなシルクハットのようになるに至って、遊馬はとうとう徳之助の帽子をこの時間内に描き上げるのを諦めた。
「ま、いいか。後で徳之助に聞いてみよ」
向こう側のテラスがざわついたような気がする。アストラルが柵から腰を上げ、後ろを振り返ってみれば、果たしてそこには凌牙がいた。彼は伸びをしようとしていた両腕をのろのろと下ろし、用心深く周囲を見渡している。
アストラルが知らせるよりも先に、遊馬も凌牙がいるのに気がついた。
「あれ? シャークだ。あいつどうしたのかな」
〈大方、授業を自主的に欠席してここで休憩をとるつもりが、君たちの授業のせいで当てが外れたというところだろう〉
「そっか、そういうことなら」
遊馬はすっくと立ち上がり、アストラルが何か言う前に両の手のひらをメガホンよろしく口に当てて――叫んだ。
「おーい、シャーク――!」
すると、向こう岸の凌牙はびくりと肩を震わせた。きょろきょろと左右を見回し、遊馬の存在に気づくと、テラスとテラスを繋ぐ連絡通路を早足で渡ってやって来る。荒っぽい歩調からして凌牙はどうやらご立腹の様子。凌牙の接近に伴って、「シャークだ」「シャークよ」と周囲のクラスメートたちがこそこそささやき合っている。しかし遊馬はどちらも全く意に介さず、どころか「こっちこっちー」と一人呑気に手を振っていた。
あっという間に遊馬の元にたどり着いた凌牙は、右足をがんとテラスの床に踏み出し怒鳴った。
「遊馬、てめえ! 先公に見つかったらどうするつもりだ!」
「へへ、ごめん」
へらりと笑いながら謝る遊馬に、凌牙はそれ以上の怒りをぶつけるのを止めた。止めたと言うよりも諦めたと言った方が正しいかもしれない。そんな彼は、遊馬の手にしている物を目敏く見つけた。
「何だそれは」
「これ? 美術の授業だよ」
「道理で、この時間帯にこんなところで一年の連中がうろちょろしてた訳だぜ」
嫌そうに人で溢れるエントランスを眺め回す凌牙に、遊馬は自分の描いている絵を見せた。凌牙は一通り見てから「下手くそだな」と一言だけ感想をよこした。
「シャークの時はどうだったんだ、美術。こういうのやっただろ?」
「さあな。今年ならともかく、去年の今頃なんて忘れちまったぜ、くだらねえ」
今年なら、のところで凌牙は遊馬からふいっと目をそらした。
「大体何でお前、ご丁寧に人物まで描き込んでやがるんだ。授業の課題なんだから風景だけで十分だろうが」
「だってさあ、考えてみろよ。すっげえ嫌じゃね?――本当に誰もいないとこなんて」
「……ふん」
そのままどこかに行こうとする凌牙を遊馬が呼び止めた。
「どこ行くんだよ」
「口うるさい先公に見つかっちまうと厄介だ。どこか別の場所を探すことにするぜ。まさかとは思うが、屋上には誰もいねえんだろうな?」
「ああ。先生がダメだって言ったから」
「じゃ、そっちに行くか」
「いや、授業にはちゃんと出ようぜシャーク」
〈授業中に睡眠フェイズに入る君が言えた台詞か〉
「アストラル! お前は一々うっせえよ!」
アストラルの冷静な突っ込みに、遊馬が負けじと言い返す。彼らのやり取りは、凌牙から見れば一人漫才以外の何物でもない。
一人で延々と騒ぐ遊馬に呆れた眼差しを向けていた凌牙だったが、
「にぎやかな奴だぜ」
遊馬に気づかれないうちにそっと踵を返して去ろうとする。だが、数歩歩いたところで彼は突然ぴたりと足を止めた。
「遊馬」
「ん?」
凌牙は遊馬に背を向けたまま、ふっと笑みを零した。刺々しさの欠片もないそれは、いつかテレビで見た春の海をアストラルに思い起こさせた。
「――まあ、ここの眺めは悪くねえかもな」
「シャーク」
遊馬がその言葉の意味を問いかける前に、凌牙はすたすた歩いて行ってしまった。凌牙の後ろ姿が校舎内に消えるのを遊馬はただ黙って見送っていたが、
「あ、そうだ」
いいこと思いついちゃった、と遊馬は鉛筆を片手ににんまり笑った。
――かくして、遊馬の絵の中に凌牙の姿が新たに書き加えられた。テラスの柵にもたれかかる彼は、髪を穏やかな風になびかせ、遠くの街並みを眺めていた。