空に描く
4.
ころころころり、と軽やかな音が風に乗る。遊馬が筆で小さな黄色いバケツの水をかき回しているのだ。
遊馬の絵は下絵の段階を経て彩色作業へと移っていた。
これまでにも、アストラルは遊馬の仲間たちの絵を見せてもらっていた。校舎のガラスの反射まで緻密に計算された等々力の作品や、ベンチで丸くなった猫の柔らかな毛並みを生き生きとした筆使いで再現したキャッシーの作品は、驚嘆に値するものだった。しかし、アストラルの心の中に今一番残っているのは……。
ころり、ころり、ころ。汲んだ時は透明だったバケツの水は、様々な色が混ざり合って濁ってしまっている。水の汚れと引き換えに、黒と白だけだった画用紙には新たな色が続々と加わりにぎやかになってきた。
パレットの小部屋に絞りだされる、青や藍、それに白。それを綺麗に洗った筆に取って融合させては遊馬が難しい顔をしている。
「隠し味がいるのかなあ」
試しにとばかりに今度は緑を混ぜ込んで、混ぜ過ぎた、と一人騒いだ。
〈一体君は何をそんなに悩んでいるのだ〉
宙でくつろいだ格好でアストラルが尋ねれば、遊馬は飛び散った絵の具を頬にくっ付けたまま困ったように笑った。
「青空のさ、いい色が見つかんねえんだ」
画用紙の表面は、ところどころにじんだ色彩にほぼ埋め尽くされていた。校舎の青いガラス窓。ハートランドタワーのハートのピンク。生徒たちの赤や緑や藍の制服。しかし、たった一つ、空に当たる場所だけが一筋二筋の青を引かれただけの空白で残されていた。
「これさえ塗っちまえば今日で終わりなんだけどなー」
と、遊馬はアストラルを見て何事かを思いついた様子だ。
「アストラル」
ちょいちょいと手招きする遊馬に応じて、アストラルは遊馬の真横に降りた。すると遊馬はアストラルに紙の上に指を乗せるよう頼む。何が目的なのか、アストラルには見当がつかない。それでもとりあえずは相手の願い通りにしてやった。
アストラルの指とパレットとを見比べ、遊馬は再び絵の具を何色か融合させる。そして、――できあがった色をアストラルの指のすぐ傍にすっと引いた。
アストラルは思わず目をみはった。遊馬が作ったその色は、アストラルが身にまとっているのと全く同じ色だったからだ。
「やった、これだ」
遊馬は同じ色の筆で空にすいすいと色を乗せる。空っぽだったその場所は瞬く間に青に埋め尽くされ、用済みになった筆はころんとバケツに落とされた。
遊馬の作品は、この日ようやく完成を迎えたのだ。
絵の具塗りたてで半乾きな絵の上で、アストラルの半透明な指がなぞる仕草をする。細く滑らかな人差し指が、空の部分でぴたりと止まった。アストラルの色をした空は、ごく自然に彼の指に溶け込んだ。
〈空の色……〉
「ああ」
〈私の色〉
「そうだ。お前の色だ」
彼らは二人して同じ色の大空を見上げた。
晴れの日も、雨の日も。この瞬間の空は確かにここにある。
(END)
2012/06/04