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THE FOOL

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目が覚めたらそこは真っ白な空間だった。否。真っ白な空間が真っ先に視界に入り、次いで嗚咽交じりの、重なり合った怒声とも安堵ともつかない音とその音と同じ数だけの、複数の人物達、だった。
 ぼんやりとした頭でひとつひとつその顔と名前を一致させる作業をし、そうして花村は矢張りどこか呆けたまま、

「……お前ら、誰?」

ぽつり、呟いた。


***

 一時的な記憶喪失だと診断されて、二週間が経つ。記憶以外は至って健康体そのものという事もあり、腫れ物に触れるかの様に接される事を覗けば、別段不便だと思う事もない。
 何よりあの時病室に居た彼ら――どうやら彼らが言うには、自分とは仲の良い友人同士らしい――が何かと世話を焼いては記憶の無い自分をサポートしてくれるので、不謹慎ながら別に記憶が戻らずとも良いか、と思うことすらある。
 それに医師が一時的だと診断したのだ。放っておいてもその内戻るだろうと、他人事のように楽観視しているというのもあるのだろう。
 けれども唯一つだけ、花村が煩わしいと感じている事があるとすれば、影で、或いは堂々と矢鱈と陰口を叩かれる事くらいだろうか。時に実力行使に出られるそれは、己が原因というよりも親の仕事に因るものだと気付くのは、割と早い段階だった。
 自分を心配し、何かと手助けしてくれる彼らはそれを大いに気にしていたが、当の花村といえば別段気にもしていなかった。如何せん自分は記憶が抜けているのだ。ああだこうだと言われても、それは雑音でしかなく、言うなれば追い払っても尚集る蠅や蚊といった感覚に近い。
 煩わしくはあるが、だからといって気に留めるほどでもない。花村にとって、周りから発せられる理不尽な行為は、そういうものだった。
 ―――そういうものだった、筈、であったのだ。



「花村、数学のプリント。今日が最終提出日なんだけど」
 人も疎らな夕焼け色に染まる教室で、花村はふいに声を掛けられた。
 生憎いつも連れだっている相棒――と自分が呼んでいたらしい、という事を緑色が矢鱈と印象的な里中という女子から聞いた――月森は部活に出るといって申し訳なさそうな顔をしつつも、早々に教室を出て行った。だからこうやって授業も終わった放課後に自分に話し掛ける人間は珍しい。内容が内容とはいえ、大抵月森を介してという事が多いのもあって、花村は密かに驚いた。
 顔を上げて相手をそっと観察するが、矢張り記憶にはない。それどころか名前すら出てこない始末だ。まあそんなものだろうと即座に切り捨てた花村とは対照的に、目の前のクラスメイトと思しき男子生徒の表情は硬い。何かを決意したかの様な雰囲気すら纏わせて、彼は手を差し伸べてきた。
「プリント。5時までが提出時間なんだ。持ってきてる?」
 たかだかプリント回収如きで何をそんな身を硬くする必要があるのだろうか。眉間に皺を寄せ怪訝に思いつつ、机の中を掻き漁る。
 幸いにも直ぐに手にカサリとした感触が当たり、勢いよくそれを引っ張り出す。そうしてくしゃくしゃになった紙を引き伸ばしながら、漸く得心がいった。
 成程、誰だって余計な事には巻き込まれたくはない。それが自分にとって無関係な事なら尚更だ。一発で引き当てた数学のプリントを見ながら、花村は鼻白む。
「花村?」
 プリントを睨みながら一向に手渡そうとしない花村を不思議に思ったのか、彼は怪訝そうな顔しながら花村の手元を覗き込んだ。
 途端、ひゅっと息をのむ音が花村の耳に届く。
「……これ、」
 驚愕に目を見開いた男に、花村は溜息を一つ零してプリントを机に放り投げた。
「こういう事って、よくある事なのか?」
「よく、はないな。でも初めてって訳でもない」
 おずおずと問われた質問に、半ば投げやりに答える。理解っていながらさも知りませんでしたといわんばかりのこの男の態にも吐き気がする。関わりたくないなら聞かなければいい。何もかもが煩わしいと改めて思うのは、正にこういう時だ。
「プリント、今日までだったよな?悪いけど、俺の分は適当に理由つけといてくんねえ?これじゃ出せねーし」
 紙の端をピン、と指で弾いてそう伝えると、彼は何かを思案しているような顔付きになり、それからゆっくりと首を振った。
「今日の、5時までだから。コピーとってやれば何とかなる筈」
「は?」
「だから、コピーだよ。そしたら提出出来るだろ」
 返された応えに、即座に反応出来ない。寧ろ何を言っているのか理解すら出来なかった。
 関わるのが嫌なんじゃないのか。煩わしいのではないのか。所謂押しつけがましい善意とやらか。でも、そうでなかったら―――?
 ぐるぐると目まぐるしく動く思考回路を、微かな期待が遮断する。それに歯噛みしながら、花村は苦々しげに口を開いた。
「コピーって…。答えまで一緒に印字されたら意味ねえだろ」
「原本は先生が持ってるし、でも理由を言って新しいのを貰うとか、そういうのは嫌なんだろ?だったら俺の回答を全部一旦消すから。それだったら多少汚れは目立つかもだけど、元のと変わらない筈だし。――消しゴム貸して。ああいや、俺が右半分消すから、花村左側消してよ」
「おま…、そしたらお前ももう一度問題解かなきゃいけなくなるだろ」
「大丈夫。答えは大体頭に入ってるから」
 ほら、早く。
 急かされて、言われるままに筆箱から消しゴムを取り出す。頭の中は依然として混乱したままで、けれども時間がないと急く様に促されては出る筈の答えすら弾き出されない。
 花村は溜息一つ零すと半ば諦めの境地でそれらを放棄し、後は無心で手を動かした。
 それからの行動は早かった。コピー機を所持している部活へひとっ走りして一部刷り、その後教室で互いに無言で問題を解く。一度解いているという事もあるのと、頭に入っているという言葉は本当だったのだろう。彼はあっという間に問題を解いて、花村へ解き方を教えてくれる。
「てかさ、これ、答えを教えてくれた方が早いんじゃねえ?」
「ダメ。それじゃ花村の為にならないよ」
「……お前さ、妙なとこアイツに似てんのな」
 思わず漏れ出た本音に、目の前の彼は眉間に皺を寄せた。けれどもそれに、下を向いている花村が気付く事はなかった。

作品名:THE FOOL 作家名:真赭