THE FOOL
ジュネスは毎日がお客様感謝デー!
陽気でいかにもといった店内用BGMが流れる中、花村はとある人物の背中を見付けた。
「よう」
思わず小走りで近付き、軽く肩を叩いてウィンク一つ。相手は酷く驚いた様で、目を大きく見開ききっかり数秒、石の如く固まってしまっていた。
「び………っくりした。何だ、花村か」
「何だとは何だ。俺で悪かったな」
少し拗ねた風に言い返せば、彼は苦笑を湛え「そんなこと言ってないだろ」と花村を小突く。それに密かに安堵し、後押しされるように花村は口を開いた。
「この間の、サンキュな。ずっと言おうと思ってたんだけどさ、なんかタイミングが掴めなくて」
「…この間の?」
「数学のプリント。助かったよ、マジで」
「ああ、そういう事」
得心がいった様に頷き、それから彼は目元を和らげ可笑しそうに笑う。
学生服を身に纏い、買い物かごを手に持って店内を物色していたのは、先日世話になったクラスメイトだった。
あのお陰で事なきを得、礼を言おうと機会を窺うも中々そう接触するチャンスが得られないまま、数日が経ってしまっていた。
花村は学校では基本、月森とつるんでいる事が多い。そんな中、件の事を話せば嫌でも月森の耳に入り、ひいては里中や天城、一年組の耳にも入る事となるだろう。彼らが自分を必要以上に気にかけて、心配してくれているのを知っているからこそ、大勢の人間がいる前でこの話をするのはどうにも憚られた。
それから目の前の彼のやった行為が衆人の耳に入り、非難の的となるのを避けたかったのもある。何がきっかけで、何が原因で、そしてそれが何時どう転ぶか分からないのを、花村は身を以て知っている。記憶はなくともそれが恐ろしい事だと、本能が訴える。
だからこそこっそりと目で彼の姿を追い、礼をいうタイミングを狙っていたというのに、彼は結局、今に至るまで一人きりになる事はなかった。寧ろ一般的な基準で考えるのなら、それが当たり前であって単純に自分が例外なのだろう。
「別に気にしなくて良かったのに。見かけによらず律儀だよね、花村って」
あっけらかんと、そしてやわらかな響きをもって返された応えにほっとする。そこで漸く花村は、自分が無意識に身を強張らせていたのを知った。そっと彼に気付かれないよう、固く握りしめた拳をゆるゆると解く。汗ばんだ掌に身に染みついてしまった恐怖心と警戒心とを、問答無用で叩きつけられたような気がして気分が悪くなった。
「花村?」
何も反応を返さない自分を不思議に思ったのか、彼が小首を傾げてこちらを覗いて来る。
やめろ。覗くな。―――頼むから、見ないでくれ。
そう喚きたくなるのを寸前で堪え、花村は無理矢理笑顔を作った。
「や、何でもねえ。それより、それ夕飯の買い物?」
「そう。お遣い頼まれてさ。全くウチの母親も人使い荒いよな。俺、部活帰りでクタクタだってのに」
片手を肩にあててあからさまに疲れてます、という仕草をみせるも、彼からそういった空気は微塵も窺えない。寧ろ仕方がないな、というどこか相手を思いやる気持ちが見て取れる。
―――ああ、だからか。
唐突に、理解する。
彼はそういう人間なのだ。だったら、少しは希望を持ってもいいだろうか。期待しても、大丈夫だろうか。
「花村?」
再度の呼び掛けに、花村は先程とは違った笑みをにっこりと浮かべた。
「俺、今からレジ担当なんだ。買い物全部済んだら、俺ンとこ並んでくれよ。サービスすっからさ。この間のお礼、って事で」
これで貸し借り無し。全部チャラな。
そう言うと予想通り彼は、ホント律儀だなあと、どこか嬉しそうな雰囲気を漂わせて苦笑する。それにどきりと心臓が音を立て、花村を酷く落ち着かない気持ちにさせた。
相手が嬉しいと嬉しい。笑ってくれるのなら、もっと嬉しい。それを自分は知っている。
既視感にも似た状況に、花村は急に目の前が霧に覆われたかのような錯覚に陥った。
「何か悪いな。こんな割引して貰って。ジュネス大丈夫?俺の所為で潰れたりしない?」
何だかんだと理由をつけて少しの時間だけレジの担当を代わってもらい、外まで見送りに来た花村に対して返ってきた台詞は、感謝とは程遠いものだった。
「お前ね…」
「はは、冗談だって。ありがとな。これで余った釣りイコール俺の小遣いが少し増えた」
「ホントに感謝してる?!」
じゃれ合っている様にしか見えない遣り取りを繰り広げながら、自動ドアを潜る。よもや自分が、月森達以外の人間とこうして冗談を言い合える様になるとは予想だにしなかった。その事に花村は内心少なからず驚愕し、それからほんの少し、先の見えない暗い道に、光が見えた様な気がした。
俯いて小さく笑うと、それら一連の行動を見ていたかのようなタイミングで名を呼ばれる。
「何?」
「教室でもさ、話し掛けてよ。俺からも、話し掛けるから。おはようとか昨日観た番組とか、何でもいいからさ。……俺、もっとお前と話したいよ」
―――勿論、花村が迷惑でないならだけどさ。
僅かに照れを含んだそれに、胸が熱くなる。考えるより先に、気付けば大きく何度も首を縦に振っていた。
「良かった。じゃあ、また明日」
また、明日。
そう言って手を振って去る彼の後姿をいつまでも眺めながら、その言葉を何度も反芻する。そういえば何も返事を返していなかったと花村が気付くのは、バイトが終わって帰宅してからだった。
あれから花村は宣言通り、彼とはよく話す様になった。最初こそ心配そうに見ていた月森や里中、天城といった面々も、花村が笑いながら楽しそうに話す姿を見て、大丈夫だと判断したらしい。近頃では二人きりで話しても、何も言われなくなった。
「心配性過ぎんだよなー、あいつらは。まあ有難いっちゃ有難いんだけど」
放課後の屋上、人の目が余り向かない場所を陣取って少しの時間、他愛もない話をするのが専ら最近の日課となっている。
花村にはバイトがあるし彼は部活をしていたから、それまでの僅かな時間ではあったが、偶に互いに時間があえば下校時刻ギリギリまで話し込んだりもしていた。それがここの所の密かな楽しみの一つである事は、花村だけが知る秘密である。
「皆花村の事が大事なんだ。そんな事言うなよ」
「そんな事言ってもさ」
言われずとも分かっている。唯、他人に面と向かってそれを指摘されるとどうにも気恥ずかしい。それを押し隠す様に、わざと唇を尖らせて捻ねた様子を作れば、微かに苦笑する気配が届く。彼には既にお見通しらしい。
「でも俺、皆が思ってるほど気にしてねーし。周りがどう言ったって、記憶がねーからいまいちピンとこねーっていうか」
苦し紛れに呟いた言葉は、花村の本心だった。以前ならば兎も角、欠落した今の自分には、罵詈雑言も芯まで響く事はない。そう思って、そう信じていたのに、彼はそれを一蹴してしまった。
「嘘。花村、ちゃんと自分の事見えてる?理解してあげてる?」
問われた言葉は妙に確信を衝いていて、花村の心を揺さぶった。
「…ンだよ。自分の事くらい、自分が一番理解ってるっつーの」
「どうかな。花村は自分の事となると鈍過ぎるくらい鈍感だし」
「ちょ、それ聞き捨てならないんですけど!」