THE FOOL
空が段々と茜色へと移り変わっていき、花村は塀に寄り掛かりじゃり、と砂を踏んだ。待ち人は未だ来ない。携帯を開けては閉め、閉めては開いてを繰り返し、結局はポケットへと突っ込んだ。
「おかえり」
あれからどれくらい待っただろうか。翳った足元に目的の人物が帰宅してきたのを知り、顔を上げて極力平静を装いながら片手を上げる。目を見開き驚きに満ちた顔に小さく笑い、花村は
「記憶、戻った。取り敢えず部屋に入れてくれよ、月森」
とだけ告げた。
部屋に案内されて、適当に座っててくれという言葉と共に月森は階下へと姿を消した。飲み物を取ってくる為であろうその行為すら今はもどかしく、引き止めようと何度も口から言葉が出掛かったが、それをどうにか理性でもって押し留める。代わりに深呼吸を繰り返し、言うべき言葉、告げるべき言葉を反芻する。
緊張のあまり震えだしそうな手を握り締め、眸を一旦閉じて落ち着くよう自身に言い聞かせた。
淡い期待はしない。けれども、絶望はしない。その権利すら無い事を、今はちゃんと知っている。
それはひどく辛く悲しい事ではあったけれど、受け入れると覚悟したのだ。多少は泣くかもしれないが、それはご愛嬌だ。せめて彼の前で泣く様な無様な事だけは、己のプライドに懸けてしないと決めている。
再び開いた視界に飛び込む様に、月森が盆にグラス二つとペットボトルのお茶を乗せて戻って来た。
「ごめん、今こんなんしかなかった」
「や、いいって。サンキューな」
申し訳なさそうに眦を下げてそういう男に、花村は慌てて手を振り答えた。月森は応えの代わりに小さく笑うと、盆を卓上に置いて花村の向かい側に腰を下ろす。
「…記憶、戻ったって?」
沈黙が支配する中、それを破ったのは月森だった。確認するようにそう問われ、花村は小さく頷く。
「ほんと…何つーか、唐突にっていうか…。ホラ、よく言うじゃん。急に歯車が動き出して、その途端一気に今迄の事が頭ン中を駆け巡って、ってやつ」
「…言うかな?」
「おま、そこは何も言わず同意しとけよ!空気読め!」
思わず組んでいた足を解いて、げしげしと月森の脚を蹴れば、そのまま足首をがしりと掴まれた。
「つき、」
「きっかけは?」
突然の行動に非難の声を上げようとして、けれども強い声にそれを阻まれる。驚いて月森の顔を仰ぎ見ると、不安と嫉妬と、怒りと悲しみが綯い交ぜになった眸がひた、と花村へと向けられていた。
こいつでもこんな顔をするのか、というのが花村の正直な感想だった。
そうさせたのは自分なのかと思うところは色々あったが結局見ていられなくなり、花村は月森の前まで移動すると、目の前の男を引き寄せぎゅっと抱きしめた。
腕にすっぽりと収まった月森は大人しく、それどころか犬の様にすり、と擦り寄ってくる。それを見てまた胸が痛む。
どれほど傷付けただろうか。どれほど悲しませただろうか。どのくらい、泣かせただろうか。
どれだけ考えても憶測の域を出ず、また胸が疼く。
苛む音はキリキリと鋭く、けれども真綿で首を絞める様にじわじわと緩やかに花村を浸食していく。
締め付けられる胸が苦しい。けれどもきっと、月森はそれ以上だったに違いない。
花村はそろりと腕の拘束を解いて、月森と距離をとった。
窓辺から差す真っ赤な夕日が部屋を覆い、赤と黒の二色に染まる。綺麗な銀糸の髪は夕焼け色に彩られ、きらきらと光っては目を焼いた。
そうしてそろりと目を合わせると、ひたりと静かな眸とかち合った。激情を深い水底に沈めて凪いだ湖面の様ないろを湛えたそれは、罪悪と歓喜と情愛を花村に植え付けさせる。
そのままゆっくりと伸ばした手で頬をそっと撫ぜると、指先からじわりと体温が染み込んでいく。
それが、合図だった。
カタカタと小刻みに震える手を武骨な、悔しくも自分よりも少し大きな手が握り返して漸く、己の目頭が熱い事に気が付いた。
洩れ出る嗚咽を必死で押し殺し、震える唇をどうにか動かす。
言いたい事も伝えたい事も沢山ある。
複雑で難解な心を言葉で全て伝える術など持ち合わせてはいないけれど、それでも察しの良いこの男なら、きっと理解ってくれるだろう。
「…なあ。なあ、俺さ、――俺、は」
有難う。悪かった。感謝してる。どうか、許して欲しい。
色々綯い交ぜになった感情を何でも良いから、少しずつ吐き出そうと声帯を震わせて音に出す。
けれども言葉になったのは―――
「―――俺は、お前以外、好きになんかなりたくはないんだ」
どうしようもない無意識で無自覚な、花村の身勝手な真実、だった。
end.