THE FOOL
「花村?」
不思議そうな顔で呼び止められ、花村は苦笑を湛え片手を相手に向かって上げた。
あれから一旦教室に戻り、運悪く担任に呼び出された花村が漸く解放されたのはそれから更に一時間と少し後の事だった。昇降口で待っていると言っていたが、流石に帰ってしまっただろうか。期待と不安が胸を渦巻く。
慌てて帰宅準備をする花村に声を掛けたのが、彼―-ではなく、相棒である月森だった。
「どうしたんだ?もうとっくに帰ってると思ったんだけど」
「いや、それがさ。担任に捉まっちまって」
「…ああ、それはご愁傷様」
納得し、その上で憐みの眼差しを向ける月森に、花村はげしげしと彼の脚を蹴った。
「おま、その『花村君はほんっとーに運がないな』みたいな目はやめろ!余計悲しくなるわ!」
「いてて、や、だってホントの事だろ」
「ムカつく!」
ぎゃいぎゃいと騒ぎながら、互いに応戦する。この何でもない、他愛もない遣り取りが酷く嬉しいと感じる。
――この時間がもっと続いてくれれば良いのに。
ふと芽生えた己の感情に、愕然とした。
「花村?」
攻撃を止め、急に押し黙った自分を怪訝に思った月森が、身を屈めて顔を覗き込んでくる。咄嗟の反応が遅れてカチリと合った眸に、けれども嫌悪は湧かなかった。
「何か…お前ってスゲーのな。目ェ見て落ち着くとか、お前の目力どんだけだよ」
深い海底を思わせる眼差しに、くしゃりと相貌を歪ませる。どうにも苦しい。原因は分かっている。何かを、大事なものを身落としている。
「…何かあったのか?」
―――彼と。
その言葉は発せられる事はなかったが、月森がそれを指している事は言わずとも分かった。相変わらずの察しの良さに、花村は脱帽したいやらむず痒いやら、奇妙な心地になる。
「別に、何かって訳じゃねーんだけど。寧ろ俺が一人でモヤモヤしてるっつーか…」
歯切れ悪く話す自分を急かすでもなく、静かに次の言葉を待ってくれている月森の姿勢に、じわりと染み入る何かを感じる。もう少しでそれを見付けられそうだと妙な確信をした時、ポケットに入れていた携帯がけたたましく鳴り響いた。
「うわっ!」
「電話?」
「いや、メール。アイツから。まだ終わらねーのかって催促っぽい」
花村は携帯の画面を開いて文面にざっと目を通し、手早く返信を終えるとそのまま無造作にポケットに突っ込んだ。
「俺、やっぱ運悪いのかも」
溜息と共に思わず呟く。もう少しで何かが分かりそうだったのに、あと一歩の所で邪魔が入ってしまった。届いたメールを忌々しく思い、それからふと我に返る。
「……邪魔?」
仮にも恋人に対して、それはないだろう。自分で言った言葉に驚き、息を呑む。大袈裟なまでにひゅうと音が鳴り、花村は軽い恐慌状態に陥った。
「大丈夫か?顔色悪いぞ」
一気に色を失くした花村を心配してか、月森は徐に手を伸ばすとするりと頬を掴んだ。
「ひゃ、」
途端びり、と電流の様な刺激が走り、花村はびくりと身を震わせた。吃驚したようにこちらを凝視する月森の顔を見ていられなくて、花村は咄嗟に月森の目を己の手で隠す。
花村自身、己の反応が信じられないでいるのだ。せめてこの赤く染まった顔色が落ち着くまでは、何も見ないで欲しい。
そう思っての行動だったのだが、ゆっくりと月森に己の手首を掴まれて、その熱さにどくりと心臓が跳ねた。
この感覚を、自分は知っている。
確信にも似た想いが過ぎって、気が付けばぽろりと滴が落ちていた。
「……な、んで」
よく分からない激情に流されるまま涙を零す。止めようと思っても、勝手に次から次へと溢れて止められない。目を丸くしてこちらを見詰める月森に、花村は無意識に縋る様な視線を送っていた。
途端、ぐい、と力一杯腕を引かれて抱き締められる。見知った体温と匂いに安堵し、それにひどく混乱する。
「…何か、あった?」
静かに小さく問われた言の葉は、先程の続きだと容易に知れた。だから花村は月森の腕の中でふるふると頭を振る。
「ちが…違うんだ。俺が、何も無くて、勝手に、俺…が、っ…で、」
頭の中はぐちゃぐちゃで、それに呼応する様に零れる言葉も支離滅裂だというのに、月森は全部吐き出させる様にやさしく背を撫ぜ、一言一句逃さぬとでもいうようにじっと耳を傾けてくれている。
この男は、いつだってそうだった。彼が好きだと言った時も、その前もその後も、そして今だってこうして優しく包んでくれる。見守ってくれている。
きっと思う事だって色々あるだろうに、いつだって月森は自分の事を最優先に考えて行動してくれるのだ。
―――愛されてるよね。
いつかの言葉を思い出す。確かにそうだ。これは、愛情ともとれない事はない。
そう思って、気付いて、気が付けばその感情に突き動かされるまま、花村は月森に口付けていた。
「は……な、むら?」
驚愕し、戸惑った声音にハッと我に返る。そうして漸く、自分が一体何をしたのかを自覚した。衝動に護られていた理性が一気に舞い戻り、花村の心を芯から凍らせる。急速に温度を失い冷えゆく世界に、絶望にも似た感情が花村を襲った。
―――失ってしまった。
一番大切なものを、自ら手放してしまった。何故だかそう思った。
「ちが…っ、ごめ、ごめん!」
半ば半狂乱になりながら花村は月森を衝き飛ばし、くるりと身体を反転させると扉のある方へ走り出す。兎に角この場を離れなければ。その思いだけが思考を埋め尽くし、花村を突き動かした。
「花村!」
背後から聞こえてくる声を無視して、一心不乱に階段を駆け降りる。
―――触れた唇はどこか懐かしく、そして覚えのあるものだった。
「遅いぞ、花村!」
表情こそ待ち草臥れて苛立っているといった風なのに、その実かけられた声は少しも怒ってはいなかった。現によく見ればその目元は柔和に笑っている。
昇降口でと約束していた彼は、律儀にもそこで花村を待っていた。乱れた息を整えつつ近付きながら、先に帰ってくれて構わなかったのにと自ら進んでつけた約束にも関わらず、薄情にも花村は頭の隅でそう思った。詰られても罵られても良い。今は誰とも会いたくはなかった。
纏う空気がおかしい事に気付いたのだろう。彼は何も言わぬ自分に不思議そうに首を傾げ、それから人の顔を見るなり眉を顰めた。
「大丈夫?」
―――大丈夫か?
心配そうに覗く眸と言葉に、ぼんやりと重なる姿が見える。輪郭も覚束ないそれは、けれども誰だかすぐに分かった。その事実に、目頭が熱くなる。
それに目敏く気付いた彼は何かに気付いたのか、苦々しげに顔を歪ませると、場所も弁えず性急に口付けを強請り重ねてきた。
合わさった唇に、その熱に、違うと心が訴える。手を伸ばして掴み損ねた残像に、ぽろりと涙が一つ、零れ落ちた。
瞬間、目も眩む様な激しい痛みに襲われ、同時に欠けていたピースがカチリと合わさる音を遠くで聞く。―――そうして漸く、花村は全てを思い出した。