もしも、の話
「カーット!ハイ、OK!お疲れさん!休憩挟んだら次のシーンね!」
「――え、」
その言葉に茫然としたのは、花村ただ一人だけだった。ざわめきだした周囲に硬直していた身体が我を取り戻し、慌てて花村は散り散りになる出演者達を掻き分け、監督のところへ走っていく。
「あの、監督!」
「ん?どうしたの?」
急な呼び掛けに不思議そうな顔をして、自らも休憩へと向かっていた足を止め、彼は花村へ顔を向け首を傾げた。花村は少し乱れた息を整えながら、監督へ向き合う。
「さっきのシーンですけど…あれ、ホントにOKなんですか?俺、全然出来てなかったと思うんですけど…」
「ああ、大丈夫。ちゃんと出来てたよ。OKOK。心配しなくても大丈夫」
「でも、俺、納得いきません。もう一回お願いします!」
穏やかに返された応えに、けれども納得がいく筈もなく、花村は食い下がる。然しそれに対して返ってきた答えは、花村を打ちのめすには十分過ぎる程辛辣だった。
「だけどキミ、もう一度やって、それで納得できるの?」
――その言葉に何も言い返す事は出来ない。花村は押し黙り、唇を噛み締め俯いた。
黙り込んだ花村をどう解釈したのか、そのまま何も言わず去って行くその背を、花村は唯見送るしかなかった。
***
ドン、と誰かにぶつかり、次いでばしゃん、という何か液体が床に叩き落とされた音が遅れて耳に届く。
「あ、わりぃ」
ぶつかった相手はこの映画の主役であり、花村の相棒役でもある月森孝介だった。ちょうど自販機でお茶を買っていたところを、ぶつかったらしい。床には薄緑色の液体と氷が派手にぶちまけられていた。
彼の手元を見るとぐっしょりと濡れていて、花村は慌ててハンドタオルを取り出すと、月森に押し付ける様に差し出した。
「ホント、悪い。余所見してた。これ、俺が片付けとくから」
先程の件と言い、今日は本当にツイてない。然しそれもこれも、己の不運が招いた事ではなく、元を糺せば自分の実力不足が原因だという事は花村自身、嫌というほど理解っていた。
落ちた残骸を片そうと、屈んだ拍子にじわりと目頭が熱くなるのが自分でも分かった。ぎゅうと唇を噛む。
こんなところで、こんな何でもない事で、泣きたくなんてない。
気を紛らわす様に素手で氷を掻き集める。ひやりとした冷たさが指先を襲い、余計に泣きたくなった。
なんて惨めな光景だろうか。そう思ったのが最後だった。ぽたりと滴が床に落ちる。
悔しい。歯痒い。情けない。もどかしい。
精一杯頑張っても、それが結果に反映されない。それどころか一生懸命周りとつりあおうと背伸びをしているのが見え見えで、我ながら滑稽極まりない。意欲や意気込みはあっても、経験や実力がそれを邪魔する。
―――納得出来るの?
ふいに監督の言葉が蘇る。胸を抉る様な言葉は、耐え難い真実だ。
納得なんて、出来る筈がない。何度やったって、自分は不満を抱え不平を零すだろう。―――それでも。
それでも自分は、きっと同じ事を言う。何度も同じ事を繰り返し、何回だって同じ台詞をバカみたいに言うのだろう。―――諦めきれないのだ。
相手が良いというのだから、そういうものだと割り切って流してやれば良いのに、と己の中でそう囁く自分が居る。そうだとも思うし、それが賢いやり方だとも知っている。それなのに、こうして足掻く自分がいる。以前の自分なら信じられない現象だ。でもだからこそ、最後まで抗いたいのかもしれない。
けれどもどうしたら良いのか、花村はもう分からなくなっていた。諦めたくないのに、向かう先は真っ暗で足元すら覚束ない。八方塞りで身動きすら出来ない。
頑張りたいのに、やりたいのに、それが―――出来ない。
「――手伝うよ」
ふいに頭上から掛けられた声は凪いだ風の様に穏やかだった。それでいて凛としていて、妙に胸に響く。
その声でやっと自分の思考に耽っていて、目の前の彼がまだ立ち去っていなかった事を知った。遅れて先程の言葉が脳内で繰り返され、じわりと身体に浸透していく。
反応が遅れた花村を余所に、手元が暗く陰る。彼は屈んだようだった。
そうして転がった紙コップを手に取ると、コトリ、とそれを立てた。しかしそれ以上の動きはなく、手伝うと言ったくせに零れた液体を拭くどころか、床に散らばった氷を拾おうともしない。訝しがる花村をよそに、もう一度、手伝うよ、と声がかけられた。
「先ず発声がなってない。取り敢えずはそこからだ。俺も、付き合うよ」
――だから頑張ろう。
そう言って笑う男を見て漸く、花村はサンキュ、とぎこちなくも笑う事が出来た。
end.