隠部
1.幽谷の一部
「だって、幽谷「さん」は女の子でしょ?」
誰が見ても分かるくらい相手は戸惑っていた。
自分が初めて好きになった女の子。
色素が少しだけ薄い、こげ茶に近い長髪。
白い肌、中肉中背。
顔は少し垂れ目、柔らかい物腰で見る者を安心させる。そんな女の子だった。
普段は誰に対しても優しい彼女だが、顔を歪め不快といった表情を露わにしている。
そんな彼女の表情を幽谷は初めて見た。
普段の彼女からはとても想像ができない醜い顔。
その顔を見た瞬間、底の見えない真っ暗な谷に突き落とされたような錯覚に陥った。
「だって、幽谷「さん」は女の子でしょ?」
この一言が幽谷にとってはこれ以上ない差別用語だった。
女なんでしょう?
女のくせに。
なにかあるとこう言われる。その度に何も言い返せない自分が居た。
悔しくて、情けなくて涙が溢れ出てくる。
溢れ出た涙は顔に巻いたバンダナに吸い込まれていき頬を伝うことはなかった。
***
幽谷はいわゆる「性同一性障害者」だ。
簡単にいうと体は男だが心は女。またはその逆だと自認している症状だ。
幽谷の場合「同性愛」と捉えられることがしばしばあったが、本人はあくまで自分を男性だと主張しているのであって、自身を女性だとは思っていない。
性同一性障害の話は幽谷が中学生になったばかりの春に、その兆候があると幽谷の親から学校の教師たちには知らされていた。
それはサッカー部顧問の地木流灰人の耳にも入っていた。
あの子はああいう子だから特に気を使って欲しい。
そんなことを幽谷の担任から聞いた。
地木流は噂には聞いたことがあったが、直に本人を見るのははじめてだった。
一つ目の不気味な柄のバンダナで目元を隠し、薄紫のきれいな髪の毛を男の子のように逆立てている。
パッと見は普通の男の子だった。
まだ中学一年生だ。体格の細さや声の高さはまだ成長過程という理由で片づけられる。
それに、サッカーの技術は他の選手たちとは比べ物にならないくらい高かった。
体格の細さをテクニックでカバーし、その細い足からは想像できないくらい強力なシュートを打つ。
小学生時代からサッカー部で、高い技術能力を持つと評判の高かった幽谷。
だが小学校までなら公式試合も男女混合で許されるものの、中学校だとそうはいかない。
公式試合に出場できるのは男子だけ。
幽谷の類稀なるサッカー能力を女の子だからという理由だけで潰すのはあまりにも惜しいし、本人も自分は男なのに何故出場できないのかと不満を持つだろう。
地木流は幽谷を男の子として扱うことにした。
***
そんなある日、校舎の廊下を歩いていると何者かと正面衝突をした。
地木流は慌ててごめんなさい、と言うとぶつかった相手を確認する。
相手は俯いたまま突っ立っている幽谷だった。
気のせいだろうか、泣いているように時々小さくしゃくりあげている。
ただならぬ感じに気付いた地木流は、幽谷の両肩に手を置くと身をかがめ視線を幽谷に合わせた。
「どうしたのですか?」
一言そう聞くが、幽谷は口を開こうとはしない。
よっぽど話したくないことなのだろうか。
地木流がいくら聞き出そうと声をかけても、幽谷は口を一文字に閉じていっこうに開こうとしない。
このままではらちがあかない。
仕方なくその日は幽谷を自宅まで送って行くことにした。
日の暮れた通学路を、男子制服姿の幽谷と横に並んでひたすら無言で歩いていた。
先ほどのようなことがあったばかりだし、担任ではない地木流にとって幽谷は扱いづらい生徒の内の一人だった。
しかも「性同一性障害」を持つというさらに特別な子供だ。
何を考えているかも想像すらつかない。
結局なにを話せばいいのかも分からないでいた。
しばらく無言でいると、隣で俯きながら歩いていた幽谷がふいに声を出した。
「監督は」
一言こうつぶやいた後一呼吸間があく。次いで言葉を絞り出すように続けた。
「監督は俺のことどう思っていますか?」
まるで救いを求めるようにこちらに顔を向けてきて言った。
「やっぱり女だと思いますか?」
その言葉を聞いて、地木流は考える為に歩みを止めた。つられて幽谷も立ち止まる。
やっぱり女だと思いますか?
この質問に対し、最善と思われる答えは無いと地木流は判断した。
性同一性障害者は自身の肉体と性別が一致しないことに違和感を訴える症状だ。
ここで幽谷に対し、「君は男の子だよ」と言っても適当な慰めだと思われてしまうだろうし、「女の子だよ」と言ってしまったら、幽谷という男の子を全否定してしまうことになる。
難しいところであった。自分が性同一性障害治療に関わる精神科の者であれば、上手い言いわけを見つけられるのだろうか。
言い迷っていると、しびれを切らしたのか幽谷がポツリポツリと話し始めた。
「俺、今日●●さんに告白したんです。あなたのことが好きです。付き合ってくださいって」
その瞬間、嫌な予感が地木流の頭の中を掠めた。ふられたのではないか。そのふられ方によって今の幽谷がいるのではないか。
地木流は早まる鼓動を抑えつつ、黙って幽谷の次の言葉を待った。
「言われたんです。「だって、幽谷「さん」は女の子でしょ?」って」
愕然とした。自分の嫌な予感が的中してしまった。よりにもよって今の幽谷にとって一番最悪な断り方をしたのだ。
自分の半分も生きていない子供に、相手は性同一性障害者だから理解しろと言っても分からないかもしれない。だが、多少の気づかいはできるだろう。
それを幽谷をふった子は直球できてしまった。差別に近い言葉を投げつけてきた。彼女にとってはなんてことはない、告白してきた子は自分と同性だから恋愛対象にはならない。
ただ、それだけが言いたかっただけなのだろう。
ふと側にいる幽谷を見ると、肩を震わせて静かに泣き始めた。
地木流は幽谷の背に腕を回し、優しく抱きしめてあげた。
***
次の日から幽谷と、幽谷をふった女の子との間に妙な距離感ができた。
そのかわり、担任でもないのに地木流と幽谷が一緒にいるところをよく見かけるという。