レモンの味
「あーっ……ダリぃー」
ウォルターは通路を歩きながらぶつぶつとこぼす。
「ってか、なんか、アレだな……なんだ?」
床をにらみつけていた目を上げて、立ち止まり、天井を見上げて『あー……』と声を出しながら、考え込む。
だが、十秒と経たずにそれをやめた。
「ダリぃ」
ゆるく首を振って、つぶやいて、また歩き出す。
結論。それについて考えるのもダルい。
最近仕事が次から次にやってきたせいで、肉体的にも精神的にも疲れていた。
仕事中の緊張感とか、移動中にも神経使うし、ピリピリ張りつめていて……それが帰ってきた今でも少し残っていて。
ろくな物は食べられないし、ろくな物は見られないしで、気分も最悪だ。
肉体の疲れから寝てしまいたいが、神経が高ぶっていて寝られない。
かといって、こうやってゾンビのようにいつまでもうろついているわけにも。
でもどうしたらいいんだ。
どうしたらいいんだ。このイライラと、ドキドキと、モヤモヤと、ムカムカと、ムズムズと……。
「ダリぃーっ……」
奇妙な胸苦しさも感じるし。それはもう、仕事を終えた後の空しさというか、慣れたものだけれど、それでも奇妙なものは奇妙で。
なんでこんなぐちゃぐちゃしてんだ、心の中。
壊れてんのか? 故障か? 修理に出すか?
やけくそでそんなことまで思う。
ダレカ俺ヲ直シテ下サイ。
傷の手当てなんかいいから、何か楽になれる薬をくれ。
医務室でも真剣にそう言いたかった。
この重たい心をなんとかしてくれ。
「……おっ……?」
前方にアンディ発見。
「アンディ!」
声をかけると、足を止めて、ゆっくりと振り向く。
「……ウォルター」
アンディの大きな目がさらに真ん丸に見開かれていた。
ウォルターは急いで大股で距離を縮めた。
「何してんの、おまえ。こんなとこで」
「……別に、大したことじゃないよ。ウォルターこそ、どうしたの?」
「いや……別に。……なんだろうな、んー……」
なんて言えばいいのかと悩んでいるウォルターを、アンディが黙ってじっと無表情に見上げている。
「んー……」
ウォルターはそんなアンディを見下ろした。
じっと自分を見つめてくる赤みがかった大きな目。その意志の強そうな目に、キリッとした短めの眉。幼さを残したまるみのある頬。それを隠すようにして流れる細い金の糸のようにしなやかな髪の毛。薄く開かれた桜色の唇。そしてなめらかな白い陶器のような肌。
(あー……触りてぇな……)
まだじゅうぶんに柔らかいところの残る華奢な体。細い腰も。小さな手も。
(……気持ち良さそう)
なんてことを考えるんだ!! と脳内で自分を叱り飛ばす自分がいる一方で。
その小さな体を抱き寄せて、その頭を撫でて、髪の毛をもてあそんで、頬を撫でて、まぶたにキスをして、背中を撫でて、手を握りしめて。
許されるならば、唇を……。
(……甘やかしてやりたい……)
甘えたいのか、甘やかしてやりたいのか、自分がしたいのだから前者だろうと思うが、自分に甘えさせたくもある。
甘えられることに甘えたい。
とにかく甘い時間を過ごしたい。
それはもう、とろけるような。ぐずぐずと、もう何もかもどうでもよくなるような。そんな時間を。
(……って)
アンディが『甘える』とか。夢見過ぎだろ、自分。
ウォルターは苦笑する。
首を傾げているアンディを視界に入れながら。
(猫をかわいがるようにはいかねぇぞ……)
……まあ、嫌がったら嫌がったで、無理やり抱きしめられれば、それはそれで征服欲が満たされるんだろうなぁ。
後が怖いけど。いや前も後もないか。無理か。……いや。
邪な自分が先ほどからそそのかすようにささやきかけてくる脳内。
要は抱きしめられればいいわけで。
まぁ、そうすればこの血に飢えたみたいな心も、少しは落ち着くかと思うわけで。
アンディには悪いけれど……。
さて。
もう一度、改めてアンディを見てみよう。
きょとんと首を傾げて無防備になんの構えもなく突っ立っているアンディ。
目の前の相手が何を考えているかなど、ちっともわかっていない。
(これはイケる……!! いや、待てよ)
心の中でグッと拳を握りかけた手をそっと下げる。
簡単に抱きしめられそうだが、おそらくそこで終わりだ。
下手すると俺が終わる。
(なんとかおとなしくさせておけないものか……)
どのみち嫌がるだろうけど、それでも少しの間、抱きしめられて、好きにさせてくれないものだろうか。
まず了解を得てしまえばいいわけで。
ウォルターの言葉を待っていたアンディが、傾けていた首を戻し、呆れたように息を吐くと、冷たい声で言った。
「なんでもないならボクは行くよ」
「あーっ、待て待て、アンディ!」
慌てて腕をつかんで引き止め、焦って何かないかと考える。ウォルターの頭に、ポケットの中身が浮かんだ。そこから使えるものをチョイスする。
「何……」
怪訝そうな……もっと言うと気持ち悪そうな……顔をしているアンディに、ポケットから出したものを突き付ける。
「飴!!」
そうだ、飴玉があったんだ、ポケットに。
「おまえにやるよ。食うだろ、アンディ。ほら」
「ん」
こくんとうなずいて、差し出された飴を受け取るアンディ。
ひとまずはホッとするウォルター。
「……で、頼みがあるんだけど……」
さっそく包み紙を剥がそうとしているアンディの様子を見ながら、ためらいつつも、思いついたこいとをおそるおそると口に出した。
「……それを食べてる間、ちょっと俺に抱きしめられてくんない?」
「……」
飴を口に入れようとしていたアンディの手がピタッと止まった。
「……抱きしめられて……?」
『ええっ』と嫌そうに目を細め、顔を引きつらせて、わずかに後退る。
ウォルターは慌てた。
「少し!! 少しでいいから!! 飴をなめてる間だけでいいんだ。ちょっと触らせろ! 変な意味じゃないから!! ただ抱きしめて髪の毛触るくらいだからっ……」
かなり焦って迫ってくるウォルターのその必死な様子に、かえって呆れてしまってどうでもよくなったのか、ウォルターを白い目で見ながらも、アンディは逃げ出すことなくその場にとどまり、そして不思議そうに問う。
「なんで? なんで触りたいの? ボクを」
「えっ、……温もりが恋しくて?」
自分の中でたぶんコレだと思う答えを口に出す。
アンディが『ハァーッ』と大きくため息を吐いた。
ああたぶん俺は今どうしようもない人みたいに思われてる、……とウォルターは正しく理解した。
「そんなの、誰か女の子に頼みなよ」
「おまえがいいんだって!! アンディ!! おまえが!!」
「別にいいけど……飴なめてる間だけだよ?」
意外とあっさりOKが出て、ウォルターは驚く。
あ、でも、やった、いいんだ。抱きしめてもいいって。
『よしっ!』と今度こそ内心でグッと拳を握る。
触りまくろう。飴一個で五分はあるから。
アンディは『やれやれ』といった様子でフゥと息を吐いて横を向く。
そしてその口に飴を放り込んだ。
こっちを向くアンディに手をのばす。
……と。