認識の差異、齟齬
「いくら食べたくても本当は食べられないものだって分かってるし、それに」
それでも苦笑しているように思えた。
「園原さんに卑怯な手を使いたくないよ」
彼は杏里がよく知る帝人そのものだ。それなのに未だ構えを解けないのは疑心が残るからだろう、結論を出し始めた罪歌の声が徐々に強くなる。まだ怖い、逃げたい、でも愛したい、杏里としてはその葛藤が続く間に決着をつけたい。
「寄生虫相手に、ですか」
杏里は自分が納得出来る結末を望んでいた。
「私だって、餌になり得るでしょう」
例えば猫が鼠を狩る時、鼠に断りを入れたりしない。その鼠が猫に噛みついたとしても鼠一匹で猫を殺せる筈もなく、鼠は食われてその生を終える。それが常だ。それなのにこの場において猫は鼠に食べて良いかと問いかけ、鼠が断ったので諦めるという理に適わない行動を取る。この状況を杏里が理解出来るような説明が欲しい。
「……僕は人間だから」
それでは理由にならない、人間だって食事のために他の生物を屠る。欲しい返答は帝人が杏里を捕食対象としない理由だ。
「人間は食べないよ」
言われたことに一瞬、耳を疑った。
「私は」
寄生虫だ、少なくとも杏里自身はそう自負している。
「人間だよ、僕にはそう見える」
なのにそれを否定されてしまった。欲しかった答えは得たのに混乱は止まない、寧ろ悪化する。
「え、あ……?」
言葉すらまともに成せなくなり、それでも返す言葉を探すうちに、それじゃあまた明日、と残して帝人は今度こそ蛍光灯の向こうへ消えた。待って、と言いたくても言えないことを分かっていただろうに、これでは完全に言い逃げだ。しかし帝人が去ったことで罪歌がいつもの愛を歌い始め、それを客観視するという杏里にとって日常である作業が戻ってくると先程までのことも少しは落ち着いて考えられる。他者なら発狂しかねない愛を耳にして平常心を取り戻すなどやはり自分こそ異常だ、と思いながら罪歌を体内へ戻し、セルティへ振り返る。
「……人間扱い、されてしまいました」
『嫌なのか?』
「いえ、ただ、あまりにも現実味がなくて」
『嘘じゃないと思うぞ、帝人は悪い奴じゃないからな』
天敵には違いないが、とつけ加えて肩を竦めるセルティにどんな表情で返せば良いのか分からない。
帝人が悪人ではないことは知っていたつもりだし、先程のことで思い知らされもした。彼は杏里を友人として大切にするつもりなのである、だから脅しとはいえ斬ると宣言した杏里の意思を無視して罪歌を奪うことをしなかった。明日はとにかく、彼に対してしてしまったことを謝りたい、苦笑していただろう帝人を思い返して少しの罪悪感が胸を刺す。それと同時に魚の眼が僅かでも自分を見ていなかったことに心が軋んだ。
「あの瞳に、肯定されたかったのかも知れません」
『……そうか』
帝人が去った蛍光灯の向こうを見ても誰もいない。
――愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる
少し見慣れない夜に日常の歌が響いていた。