いばらの森
…普段見せることはないが、とんでもない脚力である。無論、ただ血からませに蹴っているのではなく、力点やら何やらを計算してはいる。いるが、普通の人間はそんなものを計算して労力を減らす努力をしたくらいではドアを蹴破ったりは出来ない。言うまでもないことだけれど。
「………」
と、ドアが開いた瞬間、その向こうでもどさりと音がして、人が倒れたところであった。
「あれ、大佐。お疲れ様っス」
ふぅ、と額に浮いた汗を雑に拭ったのは、「従者」である。
「―――おまえもな」
見れば、倒れているのはさきほどの執事である。その手に握っているのは大降りのジャックナイフ、対するハボックはと言えば、かなり小ぶりのナイフというか、…こうして比べてみると果物ナイフくらい小さい。だが彼には、執事を倒すのには果物ナイフ一本あれば十分だったらしい。よく見なくても、執事が倒れているのは死んでいるのではなく、気絶させられたのだと見える。ナイフは使わず、当身でもして倒したか。…もしも実力が伯仲していれば、殺さずに捕らえることの方が難しいはずだ。ということは、要するにその程度だったのか…。
「中にももうひとりいる。というか本来の目標だが」
ちらりとハボックは室内をのぞきこんだ。そこには、今倒した執事と似たり寄ったりの風情で転がり回る男がいた。
「なんです、ありゃ?」
「…。人間の屑で、すべての女性の敵だ。私はもう殴ったから、あとはおまえに任せる。自供に反抗的な態度を示すようなら、かまわん、実力行使しろ。許可する」
「…はっ!」
ハボックは上司の低い声に、敬礼でもって応じる。
「大佐、そういえば朗報があります」
「なんだ」
「コリン・ハートネットも無事です。こいつから聞き出しました。自分はこの後被害者の保護に向かいます」
「頼んだ。私は一度外へ出る。…鋼のを車に乗せたら戻ってくる」
ハボックはこの言葉に軽く目を瞠り、それって、と小さく呟いた。
「…なんだ?」
「いや…それ、やっぱり大将なんですよね・・・?」
彼は恐る恐る、ロイが抱える少女を覗き込む。そこにいたのは確かにエドワードだったが、信じられないほどきれいに装われ、まるで他人のような風情だったのだ。
「? …そうだが…」
不思議そうに首を傾げるロイに、ハボックは乾いた笑いを浮かべる。
「…いや〜…あの、大佐…」
「だから、なんだ?」
眉をひそめて問い返すロイに、ハボックは曖昧に笑い、困ったように言う。
「起こさないんですか?」
ロイは瞬きし、腕に抱えた少女をまじまじと見つめた。
「俺なら見てませんから、どうぞ」
「は…?」
「眠り姫を起こすのは王子様のキスって相場が決まってるじゃないですか。どうぞ、遠慮なさらず」
「…………。おまえな」
はぁ、とロイは溜息をついた。
「馬鹿なこと言ってないで、とっととコリンを保護して来んか。三歳児なんだぞ。鋼のが起きる前に見つけておかないと、こっちがまた大暴れするに決まってる・・・」
疲れたように言う上司に、ハボックは笑った。そういうことにしておいてあげますよ、とこっそり内心呟いて。そして今度こそ、要救助者の保護に向かうのであった。
「コリンてことは男の子か?三歳じゃあ、うら若い妙齢の美女のお姉ちゃんてのも期待できないなあ…ま、俺こそ王子の柄じゃないし、いいか」
そんなことをつらつらと考えながら。
エドワードを抱えて階段を上れば、部下達を率いてやってくる中尉と合流した。既に彼女はあらかたの私兵を捕らえた後だったらしい。相変わらず有能というかなんというか…頼りになる女性である。
「大佐」
拘束した人間の調査やら何やらを部下達に指示しつつ、彼女は、きりっとした顔を上官…と彼が腕に抱える白い少女に向けた。
「エドワードくん!」
ロイの腕に大事そうに抱えられた少女は、微かに寝息を立てていた。
「…もう、あなたって子は」
その、ともすれば平和な様子に、さすがのリザも溜息。そして、ちょん、とその白い頬をつついた。
「……………………………」
中尉でもそんなことをするのか…、とロイは複雑な気持ちでその意外な光景を見守るしかない。見れば、ファルマンも微妙な表情だ。
「…中尉。奥でフォスターとその執事を拘束中だ。ハボックがコリンの保護に向かっている。援護と、逮捕者の確保を。私は鋼のを連れて一度外へ出る。麻酔薬を使われているらしいのでな…」
「承知しました」
「…ところで、随分正確にこちらに向かってきたな」
場内の通路はそれなりに入り組んでいた。所々の物陰から私兵も出てくるし、さぞかしやりづらかったに違いないのに、彼女達の歩みに惑いは見られなかった。不思議に思い尋ねれば、中尉はふっと微笑んだ。
「私達はエドワードくんのファンなので」
「………………」
「というのはまあ冗談ですが、フュリー曹長の発明です」
彼女は笑いながら、袖から小さな黒い筐体を取り出した。
「フュリーの?」
「小型の発信機なのです。こちらは探査用。発信機が近づくと反応する仕掛けです。単純ですが、大まかに方向と距離を探りたい時にはとても便利なのです。軽いので携帯も容易ですし。発信機側を、ハボック少尉に持たせました。大佐の居場所に辿り着けなかったら大変ですから」
ロイは複雑な顔をして黙り込んだ。なんというか…フュリーは、本当に機械が好きなのだなあ…、でいいのかこの場合の感想は。とにかく複雑だ。
「では大佐。のちほど」
微妙な表情をしている上司に敬礼ひとつ、中尉は凛々しくも突入を再開した。
「…。私は部下に恵まれた…と言うんだろうな、たぶん、この場合…」
そういえばこの子も部下といえば部下の括りなのか、と腕の中の少女を見遣る。なんだかおかしくなって、小さく笑みを刻むのだった。
外へ出て、とりあえず、自分が乗ってきた車の後部座席に、ロイは少女を横たわらせた。相変わらずその眠りは深い。しかし、鼓動がきちんと脈うっていることはもう確認している。何か変な薬を使われていないかとかそういったことは気掛かりだが、とにもかくにも、生きていたならそれだけでも一安心だ。何しろ、この城の主は、近隣に名の知れた狂人なのだ。錬金術師に右派と結託していたのは今回調査をするまで知られていなかったが、やれ女を誘拐しただの、犯しただの殺しただの、とにかく悪評が高かった。そんな男に一時とはいえ囚われていたのである。何をされているかと、本当に気が気でなかったのだ。
「…まったく、君ときたら」
苦笑しつつ、ロイはエドワードのさらりとした金髪を梳いた。音を立てて、それは左右に流れる。
「…? …これは…」
と、手を伸ばさせようとして、その手袋の下の感触に気付いた。左の手袋の下に、彼女は何かを付けている…、左手の薬指に。
「まさかフォスターが?」
眉間に皺を寄せてそっと手袋を取り去れば、違う意味でロイは息を飲む羽目になる。
「これは、…」
それは、先日ロイが彼女に贈った、形見の指輪だった。まさかここにつけているとは思わず、ロイは、言葉を失ってしまう。
「………お母さん、…」
(…あなたが、守ってくれたのですか?)
ロイはそっと少女の手を持ち上げ、左手に触れるだけのキスをする。