方舟の夜
夏の嵐は大きくて激しい。
ゴォッ、と耳元唸るような風に顔をしかめながら、嵐の中彼は歩いていた。家路を。
今その街には台風―――という夏の嵐が近づいていて、職掌上対策責任者であった彼は、朝からずっと職場に詰めていた。当然夜も帰らず、すぐにも動ける場にいるはずだった。
が…、彼はたいへん間抜けなことに、自宅の二階の窓をひとつ、開け放したままであったことに気付いた。それがおよそ午後三時くらいのこと。
彼は最初、「あぁ、でも開けっ放しで来たものはもうしょうがないか…」と、割とそう、おおらかに構えていた。つまり楽観的に考えていた。
…が…。
彼の周囲を固める部下達はたいへんよくデキていた、というか、彼に比べたらまだ生活能力が高かった。ついでにいえば、自然の脅威をよくよく理解してもいた。
「えっ大佐そりゃやべーっすよ絶対窓閉めてきた方がいいっす!今ならまだ雨足そんな強くないし帰るなら今しかないですよ?」
ちょっと目を丸くしたハボック少尉―――という、部下のひとりに言われ、彼はほんの少し危機感を抱いた。彼が普段から飄々としていて、あまり驚いたり慌てたりしない人間だ、と理解しているがゆえに。さらに、…
「そうですね。そうなさった方がいいと思います」
今のところ何も問題は起こっていませんし、とホークアイ中尉―――という、部下というか妙に頭の上がらない女性にまで言われてしまっては、危機感はほんの少しどころではなく。危機感、というものではなく、既に危機として彼の中で立派に存在を主張し始めたと言うべきだった。
「…ではそうさせてもらう」
彼―――ロイ・マスタング大佐は、こうして一時持ち場を離れ、自宅へ帰ることにしたのであった。
…が…。
「どこが、雨足が、弱い、んだ…!」
彼は部下を少しだけ呪いたくなった。
雨も風もとんでもなく強いではないか。これでは自分が遭難しかねない。証拠にというかなんというか、道行く人は誰もいない。まだ夕方だというのに…。
と。
ゴォッ…!バササササ、バッサァ…!
「ぶほっ」
マスタング大佐は―――ロイは、突然吹っ飛んできて顔中を覆ったその紙切れに息をつまらせた。非常に間抜けな光景ではあったが、風圧と相俟って、実は彼、この時窒息死の危機と隣り合わせの状態にあった。
「ももむも、…ごふっ」
必死にもがく大佐。
誰も見る人がいないのが本当に残念…、
「わっ、すいません!」
…観客登場。
ロイはもがきながら、どこかで聞いたことのある声だな、と思った。思ったが、今は一刻も早く顔面からこの、水気を吸いに吸った紙をどかす方が先だった。でないと本当に窒息死する。
そんなことになったら…かなり笑えない。
「んぐっ、ぬぬっ」
一生懸命アゲインストの中で紙を引っ張っているあたり、悲しいほどに間が抜けていた。どうして体の向きを変えて追い風の中でそれを試みない。
人間には余裕が必要である、という真理が今のロイの姿からは読み取れる。
「あっ、そんなにしたら破けちゃうだろ!」
さっきは殊勝に謝ってきた声が、非難の色を帯びロイに近づいてきた―――、と思った刹那、どん、と今度は腹に衝撃が来る。
「…ぷはっ」
…しかし怪我の功名とでもいうべきか、その衝突のお蔭で、ロイは顔からその紙切れを引っぺがすことに成功した。からくも街頭窒息死の危険からは逃れたわけである。
「…っ…、つつ…、…大佐?!」
と、自分の腹を押し潰した物体が、胸のあたりから声を上げるので、ロイもなんだと顔を上げる。今彼は、水溜りの中に盛大に尻餅をついて、上に人間を乗っけているという状態にあった。
なんというか、…もしかしたら厄日なのかもしれない。
「…は、がねの、の…?」
随分と濡れたせいで赤いコートはほとんど黒くなっていたし、金髪はぺしゃりと頬や額に張りついている。しかしその顔を、ロイが見間違うはずがなかった。いや、ロイでなくても、一度彼に会ったものなら、多分間違うはずがない。彼はそれほどに印象的な人物だった。
「…なにしてんの?あんた。嵐ン中」
「それはこっちの台詞だ…」
よいしょ、とやけに軽い体を起こしてやりながら、ロイは自分も立ちあがる。
「君こそこの―――」
ゴォッ…
「わぷっ…」
突然の暴風に、エドワードの小柄な体は簡単に翻弄され、そのままぼすっとロイの胸に受けとめられる。ロイは顔をしかめたが、さすがに彼は、風に翻弄されて倒れるようなことはなかった。
大人の男だし、それに見えなくても一応現役軍人である。しかもただのキャリアではなく、それなりの現場経験も持ち合わせる。
「大丈夫か」
ロイはごく自然にエドワードを抱き支えながら、風に負けないよう、顔を近づけて問いかけた。それがまるで耳元囁くような格好になってしまったため、エドワードが小さく悲鳴を上げた。確かめるまでもなく、驚いたのであって、意図してのことではないはずだ。現に、この暗がりの中でさえはっきりとわかるほど、その顔が赤くなっていったのだから。
「…。…君、宿はどこだ?」
「…?」
エドワードは首を傾げつつ、素直に答える。すると、ロイは眉間に皺を寄せた後、一瞬風の吹いてくる方向を睨み据えた。
「…そこならうちの方が近い。ついてきなさい」
ロイは勝手に決定すると、エドワードの肩をしっかりと抱き留めて自宅へ歩き始めた。驚いたのはエドワードである。
「なっ、ちょ、何勝手なこと言ってんだよっ」
離せ、ともがくも、ロイはびくともしない。普段は掴み所がないくらい飄々としたところの見うけられる男だが、言い出したらとにかく頑固で利かない。
「風に飛ばされて遭難したらどうするんだ?いいから来なさい」
ロイはもう、…強引だった。
いや、どちらかといえば彼が強引な性質であることはエドワードも存じていたが、それにしても…という感じである。
しかしエドワードにもエドワードの事情というものがあった。ロイが実は裏なく案じてくれていることはすぐにわかったし、ちょっとくすぐったいような、そんな気持ちであったことも確かだ。だが、だからといって、うんありがとう、と素直にそれを受け入れるというのは、エドワードには出来ない相談だったのだ。
「い、いって!」
「よくない。きなさい」
連れていかれまいと頑張るエドワードと、それを物ともしないロイの攻防はロイが優勢のまま、完全に人気の消えた道で展開される。
そして、駄目押しのように、その時また強い風が吹きつけてきた。
「…っ」
びゅう、と吹いた風が、簡単にエドワードの体、足元を掬ってもつれさせる。
「…ほら、ごらん」
しっかりとそれを抱き留めて、ロイは観念しろとばかり、告げたのだった。
ロイの家は、確かにエドワードが帰ろうとしていた宿よりは近かった。しかし、ものすごく近かった、とは残念ながら言えず、玄関先に辿り着いた時には、ふたりともすっかり濡れ鼠になっていた。
まあ、歩いている間からそうだったとも言えるし、そもそもロイなどは水溜りに尻餅をついているので、いずれにせよ手遅れという感が拭えないわけだが…。
「ふう」