方舟の夜
ロイは遠慮なくばっさと上着を脱いで、ついでにワイシャツも引きちぎる勢いで脱ぎながら、泥だらけのブーツを蹴飛ばすに近い形で脱ぎ、…つつ、拾った子供のためにタオルを引っ張り出しに屋内へ進む。エドワードは唖然とした様子で、玄関先に立ち竦んでいる。
「…?何してるんだ」
「は…?」
半裸で客を振りかえりつつ、ロイは呆れた調子で肩を竦める。
「服」
「服…?」
「脱ぎなさい。夏とはいえ、風邪をひく」
「…!」
ロイとしては、当然の指摘をしたまでだった。
確かに家族のように親しい間柄とは言わないが、知らぬ仲ではないし、男同士だ、ずぶ濡れになった服を脱ぎ捨て裸になったところで何の支障もないはずだ。
しかし、エドワードはなぜか、脱ぐどころかよりいっそう、濡れて重くなっているはずのコートをわざわざかき合わせるような仕種を見せ、それどころか一歩後退した。まるでこのまま、雨の中に出ていってしまいそうにも見えたものだ。
だんっ…
音は思いの外大きく響いてしまって、叩いた本人でさえ一瞬顔をしかめた。
「…っ」
金色の目が大きく見開かれて、自分を囲うようにしてドアを叩いた男を見上げている。驚いているのがよくわかった。
「…驚かせてすまない。…だが、帰るとは言うなよ」
雨足が強まっているのは音でわかる。
こんな嵐の中にこんな豆をひとりで出せるか、と―――割と人道的なことを、彼は考えていたりした。
「………」
蒸し暑い気候のせいで、水の匂いが凝っていた。少し汗臭いというか、男臭いというのか、そんなにおいが迫ってきて、我知らず小さな肩が震えた。
「…す、…すまない…」
それを見留めて、ロイは自分の失態に気付いた。
…これは驚いているのではない。下手をしたら、怯えているのだ。
彼は慌てて体を離すと、今度こそタオルを探しに屋内へ進みながら、とりあえずは指差しつつ「いいか、危ないんだから外へは出るなよ」と念を押して離れて行った。
「………」
彼の背中が消えていったのを見て、ずる、と濡れた背中が玄関のドアを伝って崩れ始める。
へなへなとその場に座りこみながら、濡れて紫色に変わってしまった唇が呟いた。
「…どうしよ…」
途方に暮れた顔は、今にも泣きそうだった。
「はが…」
タオルを手に戻り、ロイは眉をひそめた。
…まだ濡れた服を着ているのは本当にどういう了見なんだろうか。
「鋼の。風邪をひくから。…何を気にしてるんだ、一体」
恥ずかしがることじゃないだろう、とロイはひたすら不思議そうである。
だが問題は大有りなのだった。エドワードにとっては。
しょうがない、とでも言いたげに、ロイはバスタオルを金髪の上に乱暴にかぶせた。
「…とにかく上だけでも脱ぎなさい。本当に風邪をひく」
「………」
タオル越し、頭を軽く叩けば、ぴくりと震えて。その指先は白ささえ失って青白い。
「……、…君…」
その白い指先に、蝋人形みたいだな、と妙な感想を抱きつつ、特に深く考えずにロイは口にしていた。視線はしっかりと、唇と同じに色を失った小さな丸い爪を捉えたままに。
「…なに…」
タオルと濡れ髪の間から、金の目が揺れながら見上げてきた。
一体さっきからこの子供は何がそんなに不安なのか―――怖がっているのか。
わからないまま、そして特に考えることもないまま、ロイは続けて口にしたのである。ぽつりと。
「今まで気がつかなかったが…随分指が細いんだな。…女の子の手みたいだ」
ロイは本当に、とりたてて深く考えて口にしたわけではなかった。
「―――っ…」
ばっ、と、エドワードは慌てて手を隠した。濡れたコートの中に、ロイから目をそらすように。そして、どん、と背中をドアに押しつけ、少しでもロイと距離を置こうとする。
「……?鋼の…?」
青褪めた顔でこちらを凝視している小さな顔をまじまじとロイは見つめ―――そして気付いた。
「…鋼の、…顔を」
「っ…」
もっとよく見せろとばかり、ロイは、いささか乱暴に白い顎を摘んだ。息を飲み、金色の睫毛を震わせてエドワードは固まってしまう。
ロイは、唐突に気付いた。気付いてしまったのだ。
「…手、だけではないな…」
黒い目が、嘘を許さない強さで見つめている。耐え切れずエドワードは目をそらした。
女の子の手のようなのではなく、女の子、なのではないか、と―――
ロイは、小さな顎を捕まえたまま硬直した。
発育不良なのではなく、単純に骨格が細いのだとして。この肩幅の狭さは、頼りなさは、子供だからではなくて…。
「…まさか…?」
「……、…て…」
「…?」
震える声が、耳に入ってきた。それを訝しく思い、ロイが手の力を緩めた、その瞬間。エドワードはその隙を見逃すことなく、玄関のドアを思い切り押して外へ転がり出た。
「…っ!鋼のっ」
そのまま一目散に走っていこうとする、今は黒っぽく沈んでしまった背中、その首根っこをロイの延ばした腕が何とか掴む。そこで暴風。
「っ…」
もろに横から強風で煽られ、ロイでさえよろめいたのだ。小柄なエドワードなどひとたまりもない。倒れそうになる体を思い切り後ろに引っ張って、ロイは胸に引き取ると、再び家の中へ引っ張りこんだ。
「大人しくしろ!」
腕の中で暴れる子供を、ぴしゃりとロイは叱りつけた。
「こんな嵐の中を出ていく馬鹿がいるか!どんな事情か知らないが、すこしは物を考え…」
つい激情のまま怒鳴りつけたロイだったが、最後まで言う事は出来なかった。くしゃり、とあの強情っ張りの意地っ張り、天邪鬼で小生意気、でも頭も腕も超一流、のあの一筋縄では行かない子供、エドワード・エルリックが。
ほとんど泣き出す寸前に顔を歪め、唇をわななかせたのだ。
ロイもまさかそんな事態は想像していなかったので、かなり動揺してしまう。
「…す、すまない、私が言いすぎた…許してくれ、…泣かないでくれるか」
彼は恐る恐るエドワードの肩に触れると、謝罪を乞う様に、そっと撫でた。だが突然の優しい態度に、エドワードこそ箍が外れてしまったようで、うー、と唸るとぽろぽろと涙を零し始めたのである。
こうなるともうお手上げで、ロイはおろおろするばかり。
「な、泣かないでくれ、頼むから、…どうしたらいいんだ、お願いだ…私が悪かった、謝るから」
万策尽きて、ロイはひたすら謝りつづけるしかなかった。かなり情けないものがあるが、泣く子には誰だってそうそう勝てないものである。
「…ぅっ、…っ、…っく…」
エドワードは下唇を噛んで、ひっくとしゃくりあげながら嗚咽を堪えている。子供が泣くのを我慢している姿ほど目に辛い物はなく、ロイは本当にどうしたらいいかわからなくなる。
「鋼の…、…エ、…エド、ワード…」
ロイはほとほと困ってしまって、…ままよ、と小さな肩を今度は抱き寄せ、そっと背中をたたいてやった。とん、とんと落ち着いたリズムでやさしくたたいてやれば、一瞬の間を空けて、小柄な体がロイの胸に縋るようにくっついてきた。上着を脱いでしまったので捕まる場所がなく動く手は想像以上に小さくて、ロイは胸を衝かれる。