方舟の夜
暗に示せば、金色が瞠られた。ややあって、目元を朱に染めた少女が、外の嵐にかき消されてしまいそうな小さな声で、呼び直す。
「………ろ、…い」
もう耐えられないとばかり、エドワードはぎゅっと目をつぶった。
「……、…そうだ」
自分で呼ばせておきながら、とロイは逸る胸を押さえるようにぎゅっと手を握る。
名前など単に記号に過ぎない。この男を他と区別する記号、徴、それが「ロイ・マスタング」。そう思ってきた。だが、今。
よく出来たね、とでも言い出しそうなロイの声に、うっすらとエドワードが目を開いていく。
―――ああ、今、初めて
ロイは、我知らず微笑んでいた。
名前を呼ばれてこんなにも胸が高鳴ったのは、生まれて初めてのことだ、と思った。
狎れ狎れしく、甘ったれた声で呼ばれると冷たく冷えてきた胸が、…この違いはどうだ。かそけしい声で紡がれたのが自分の名前だということが、こんなにも嬉しい。
「た…」
「違うだろう?」
「…ろ、…ロイ。……も、勘弁、して…」
エドワードは顔を真っ赤にして目をそらした。どうかすると、泣き出しそうにさえ見える。
…どうかすると、手を出してしまいそうになる。
純粋な、純粋な魂。きれいな少女。どんな罪業も彼女の高潔さを損なうことは出来ない。精神の気高さとは元来そういうものなのだ、とロイは不意に気付いた。
「…エドワード」
もう一度呼んで、そしてもう少し強めに抱きしめる。可哀相なくらい腕の中で小柄な体が強張ったが、ロイは力を緩めようとはしない。
「…エドワード…」
男は目を閉じて、さらりとした金糸の髪に顔をうずめた。
石鹸の匂いがして、笑ってしまいそうになる。
「…雷が、嫌いだと言ったね。さっき」
「…?うん…あんまり」
怖い、とは性格上絶対言わないだろう。そんなことはわかっているロイは、無駄なことを追求したりはしない。
「じゃあ。…一緒に、おいで」
「…?」
わずかな距離を空けてそう告げれば、少女は、まるで疑いの無い顔で小首を傾げたのだった。
今は隣で丸くなる小さな体に、ロイはこっそりと溜息を。
「…やれやれ、これは」
『雷が嫌いなのだろう? 私のベッドは幸いにして広いから、今夜は一緒に寝ようか』
下心などまるでありません、という紳士の顔で口にしたロイに、それでもさすがに一瞬は迷うような顔を見せたエドワードだったが。何もしないし、それに内緒にしていれば誰にもわからないから、そのことで君を貶める輩もいないよ、私だって黙っているしね―――と駄目押しすれば、ごねることもなく素直に頷いた。そして、本当に、ブランケットを跳ね上げた中へ身をすりこませてきたのだから…唆した当人こそばつが悪い。
「…ン、」
もぞ、とエドワードの体が動く。手を口にやってすやすやと寝ているのが、もう、なんというか…、先ほどのエドワード風に言うのなら、普通に可愛い。
「……エド…」
ロイは、す、と顔を寄せ、そのふっくらとした頬に唇をつけた。くすぐったいのか、エドワードはまたもぞりと動き、小さく声を上げる。
「…ぅ、…ん…」
眉間に皺を軽く寄せ、手が、ロイの顔を払うように動く。しかしその手を握りこんで、ロイは、己の唇に近づけた。
「…エドワード」
誓うように、…請うようにそこに口付けて、ロイは小さく呟いた。
「…君が『鋼の』でなくなる時にも、…私を選んでくれたら、嬉しい限りなんだがね…」
…これは一種の賭けのようなもの。エドワードが、ロイを選んでくれるかどうか、それはわからない。多少なりともこちらに心が傾いてはいるだろうが、それは決定的なものではない。それに何より、エドワードの情緒は随分幼い。この状況でこんなにもすやすや眠れる理由が、はっきり言ってロイには理解できない。自分で誘っておいてなんだが…。
ロイは溜息をつき、それでも、ひどくやさしい目つきでエドワードを見下ろした。
いつか嵐は静まり、外からは夏の夜らしく虫の声が聞こえ始めていた。空の舞台を奪い返したのか、月光が微かなカーテンの隙間から射している。その光に照らされ、白い頬と金色の髪が光そのもののように輝く。
「…おやすみ。エドワード」
「にいさんいますかっ!」
ごんごん、とすごい勢いで朝っぱらからマスタング宅の玄関を叩く音がし、家主は目覚めた。
「…あぁ…」
嵐も去ったところで、居ても立ってもおられず、あのしっかり者の「彼女の」弟がさっそく迎えにきたらしい。きっとぎりぎりまで我慢したに違いない。今の時刻は朝の六時…まで、あと十分、といったところ。眠りの無い彼がひとり過ごした嵐の夜の心理はいかばかりであったかとロイは寝ぼけながら考えた。
「…さて」
そうしながらも、彼は、眠気ばかりでもなく目を細めた。見つめたのは、腕の中自分に縋るような格好で丸くなり、すやすやと寝息を立てる小さな体である。
「…身内との対面は最初が肝心、だろうなぁ…」
将を射んと欲すればまず馬を射よ。基本中の基本だ。
…ただでさえアルフォンスは気が気ではなかったはずなのだ。彼は兄が兄でなく姉であることを知っていて、なおかつ、ロイの悪評も知っているのだから。それが一晩同じ屋根の下など、考えるだに怖気が走るに違いない。
「…エドワード、…エド」
くすくす笑いながら、さてどうしようか、と考えつつ、ロイは嫌味のない笑みを浮かべながら囁く。起きなさい、とやさしく。耳朶を啄ばむようにしながら。
「…ん、ぅ…、…?」
ゆっくりと開く金色。
それをしっかりと見つめて、ロイは笑う。
嵐の夜は方舟に私と君を詰めて。何十日と降り続く大雨であろうとも、お互いを確かめあえるのならそれだけで―――。