方舟の夜
ロイがバスルームを出た時も、エドワードはまったくリビングを動いていなかった。ロイが出て行った時と同じように頼りなげな顔をして、ソファの上、膝を抱えるようにしていた。
その背中はとても小さい。
…思わず、抱きしめたくなってしまうくらいに。
「…鋼の」
遠慮がちに抑えた声を掛ければ、ぼんやりしていたのだろうか、エドワードの肩がぴくりと揺れるのがわかった。
室内は暗い。時折稲光が、真昼のように照らしていくけれど。
「…鋼の、…寒く、ないかね」
なぜその肩が揺れたのか、ロイは知っていた。というか、本能的に察していた。
驚き。それが確かに一番妥当だ。
だが、たぶん違う。怯え?それもあるだろう。
しかし、正解はきっと緊張だ。それも、ロイにとっては望ましい意味での。…つまり意識しているのだ、彼女は。ロイを。
そんなにも欲求不満だったろうかと、今頃考えても、あがいてもどうしようもない。襲わないくらいには、…処理、した、と思ったのだが。
「…どうかな。…普通」
果たしてエドワードは、困ったように首を傾げ、ロイを見つめた。金色の瞳がひどく美しく見え、ロイは無意識に息を呑んでしまう。
「そうか…」
「…大佐。…なんでそっち、立ってるんだ?」
ドア付近で立ちすくんでいるロイに、怪訝そうな声がかけられる。まさか「襲ってしまいそうなので」とも言えまい。さきほど格好つけたのは、他ならぬ自分なのだし。
それにエドワードを泣かせたくない。泣かれたら、たぶん一生立ち直れない。…ような、気もする。大袈裟かもしれないが。
「…いや、…まだ髪が濡れていて」
「…。いいよ、そんなの。…こっち、来ないのかよ」
「…。隣、いいかい」
ロイはあきらめの溜息をついて、エドワードが膝を抱える横に立つ。
「あんたんちじゃん」
好きにしたら、とエドワードはいつもの調子がすこし戻ったような態度で口にした。
だが今もその顔はやたらに白い。
「…。大佐」
「ん?」
エドワードは呼びかけた後一度黙り、それから、ロイがもう一度促そうかと迷う寸前で、そろそろと手を伸ばしてきた。
「…!」
ロイを見ないまま、彼のシャツの裾を、さきほど蝋人形みたいだ、と思った指先が頼りなく掴んでいた。
「…オレ。…雷、…あんまり好きじゃない」
結構動揺していたロイの耳に、よるべない子供の声が飛び込んできた。
―――雷が苦手、とは、また。
ロイは苦笑し、内心でのみそう呟く。随分女の子らしい、と。
「…明日の朝には行ってしまうよ」
ロイはそんなエドワードの手をそっと上から握って、やさしく聞こえるようにと努めてそう囁く。
「………」
「…私は別に、…四十日降り続いても、かまわないが」
「……!」
かっ、とエドワードの耳が赤くなったのがわかり、ロイは目を細める。
「…エドワード」
我慢、我慢、と何度も繰り返した。爪が食い込むくらい手も握っていた。それでも、箍が外れてしまったのかもしれない。
「…っ?」
突如耳元に顔を寄せられ、名前を囁かれて、エドワードの小柄な体が硬直する。こんな風に固まっていては、それこそ相手の思う壺じゃないか、―――ロイは、教えてやる気もなくそう思った。
それとも、彼女がロイにある程度の好意を持ってくれているから?だから、なのだろうか。
「…君が困るようなことにはしない。…だが、」
「…な、に…」
泣きそうな声がして、ロイは、…正直に言って、興奮していた。嗜虐心がもたげてくるのを抑えるのが、大変だった。最低なことに。
「…キスまでなら」
「…き…?」
涙のにじんだ目をして、それでもなお、何もわからない、という顔でエドワードは首を傾げる。
やはり庇護欲と劣情とを同時に煽る。こんな年端も行かない、きっかけでもなければ性別にも気付かない少女に。
…どうかしている。自分は、おかしい。しかし…。
「…キスは、…許してくれるかい?」
「…許す…?」
零れ落ちそうなほど目を見開く体を、そっと、けれど確実にロイは抱きこんだ。
腕の中で息を呑むのがわかる。ロイもまた、唾を飲んだ。
外は嵐。
腕の中には、…いとおしい、ぬくもり。
エドワードは何も言わず、…もしかしたら何も言えずに、じっとロイを見ていた。ロイももうそれ以上は口にせず、かわりに、す…、と大きなてのひらでエドワードの目を覆った。
「キスする時は目を閉じるものだよ」
囁けば、掌にはエドワードが慌てて目をつぶった気配が伝わってくる。ロイは、声に出さず笑った。
…なんて可愛いんだろう、と思った。
そっと手を外せば、言われた通りぎゅっと目を閉じている。なんとも素直で、かわいらしい。どうして抗わないのか、きっと思いつきもしないのだろうけれど。
(…あんまり素直だと、悪いことをしてしまうよ)
ロイは、自分は目を閉じることなく、ゆっくりエドワードの唇に啄ばむように触れた。
長い睫が頬に当たってくる。びくびくと震えているのが、食い尽くしたい衝動を与えることになど気付いていないだろう。
何でも知っているはずのエドワードは、しかしこの分野にはまだ未踏であるらしく。年齢を考えればおかしくもないのだが、ロイはそれが…不謹慎にも嬉しかった。
『解消するのは君の自由だ。それなら君の経歴にもさほど傷は付くまい?理由なら全部私に預けてくれたらいい』
(…ひどい男だな、…ロイ・マスタング)
あの時そう言った気持ちは、別に嘘ではなかった。あれはあれで本心だった。
(…私以外の誰から守る必要があるんだ、この子を?)
触れるだけの口付けから開放して、ロイは、とんとん、と白い頬を指先で叩いた。もういいよ、とでも言うように。
無論、あんなもので満足するわけが無い。だが、これは長期戦になるはずだから。
「……」
ゆっくりと、金色の目が開いていく。
「…ぁ、…」
間近い位置にロイの顔を見つけて、その小さな顔がかあっと赤くなる。素直で、かわいらしい反応だった。すくなくともロイにはそう思えた。
「…お、…オレ…」
呆然と指を伸ばして、…その今日まで気付かなかった頼りない細さの指が、赤い唇をなぞっていった。
「…初めてだったか?」
視線の高さを合わせて、ロイは、ひたすらやさしく問うた。
「………ぅ、ん…」
エドワードは、…俯き加減に小さく肯定を返す。
「…くち、…の、…家族としねぇもん」
そうだろうね、とロイはただ頷いた。本当はもっと、…そう、もっとこんなものではない、と、今すぐに教えてやりたい気持ちもある。
だが、…やはりそんな風に出来るものではない。
今はまだいい。守ってやると言った自分に、おずおずとではあるが、身を寄せてくれるだけでいいのだ。
そっと抱き寄せれば、ためらいがちに、ロイの胸に額を預けた。その背中を撫でれば痛いほど緊張しているのがわかったが、何もしない、と髪を幾度か撫で、唇で啄ばんでいるうち、その緊張も徐々にほぐれていく。
「…たい、」
自分を呼ぼうとした唇を、指で触れることでロイは封じた。そして諭すような顔をして首を振る。
「…私は?」