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ながさせつや
ながさせつや
novelistID. 1944
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2.16→3.26

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「帰すわけないじゃない?」
 一瞬で、目の前に現れていたノミ蟲に虚を突かれて咄嗟に腕が出た。らしい。ウワァン、という音が聞こえて、自分が暴力を振るったことに気付く。ノミ蟲をふっとばした先にあった壁に飾られた金属製の時計が、大理石の床に落ちてウワァンと鳴いていたのだ。
「っ、たァ……はー、まあいつものことだけどぉ」
「……」
「どーすんの、時計、壊れてなきゃいいけどねぇ。ここ、アッパークラスのホテルだよ? さらにスイート。倍率ドン! はは、俺はいいけどね、折原臨也が平和島静雄ごときの暴力で壊れないのはもう実験済みだし。壁にぶつかっても平気。っていうかこれもまた愛でしょう。我慢するさ。ホワイトデーにいつもどおりの暴力、とても俺たちらしいじゃない。ま、あのチョコだって義理だったんだ。それに本気の君の怒りが返ってくるならむしろ本望」
「……黙れ」
「シズちゃん、ねえ、迷惑かけたくなきゃ、今夜一晩は俺に付き合ってもらうからね」
 昏い笑みに、ぞわりと背筋が凍る気配がする。吹っ飛ばした先、大またで歩いて十歩はあるだろうに、そこからでも存在感は消せないでいる。いや、消すつもりもないのだ、アイツは、いつだって。見つかっちゃったなどと言うくせに、見つけてくださいと言わんばかりに主張するあの気配。俺はいつだって一歩も間違わず、池袋でアイツに遭遇することが出来る。嫌な特技だ。
「ここの支払いは俺が全部持つ。この時計だって、俺が弁償しておく。その代わりにシズちゃんは黙って俺の言うことを聞いて、この部屋に泊まる。それだけ。簡単だろ?」
 ひょいと、ノミ蟲が持ち上げた時計は針が動いていなかった。やはり先ほどの衝撃でどこかしらが壊れたらしい。ノミ蟲は、丸いつるりとした金属のそれに軽く口づけて、これ見よがしにこちらへ視線を寄越した。ねえ、俺の言うことを聞くだろう? そんな風に。
「……一晩、だけだ。朝になればすぐ帰る」
「分かってるよ、俺だってそんなに暇じゃあないし」
 ボスン、と音がした。金属製の時計が、ソファのクッションに埋もれた音。ノミ蟲は、弁償すると決めた時計の扱いなどどうでもいいとばかりにそれを投げ捨てたのだ。
「じゃ、早速だけどさ、乾杯しようよ」
 座って、とソファを指され、仕方なくそちらへ歩み寄った。窓に一歩近付く度、この部屋が高層階にあることを強く想起する。この馬鹿男は本当に高い場所が好きなようだった。それから、金のかかることも。
「お酒が好きなシズちゃんのために、シャンパンストロベリーをしようと思って。甘いものも好きだろ? 苺、好き?」
「……別に……」
 ようように腰かけたソファは、埋もれるんじゃねぇのってくらい柔らかく、俺は落ち着かない気分でいっぱいだった。テーブルを挟んで向かいにいるノミ蟲はまだまだ愉快そうにして、奴の近くにある冷蔵庫から一本のボトルと、冷やされたシャンパングラス二つを取り出す。白い指先が、冷気のせいで曇ったグラスのせいで少し赤くなっている。が、グラスの中にはその指先にも似た、鮮やかな果物が鎮座しているではないか。
「苺、おっきいでしょ? 贅沢でしょ? シャンパンもね、ブラン・ド・ブランのだよ。元バーテンダーのシズちゃんなら分かると思うけど」
「……グラン・クリュじゃねーの」
「そのランクのシャンパンじゃ、美味すぎて苺の意味ないだろ」
 あけて。とボトルを渡される。ワインナイフも一緒に。これを今、ここで俺が武器にすることなどコイツは考えもしないのだろう。まあ、俺がそれをする気がないことをお見通しの上で、なわけだが。―――なんだか考えるのが嫌になってきた。
「ほら」
「ありがと。ふ、馬鹿力なのにワインボトルは割れないんだねえ。繊細な手つきってやつ?」
「……知るか」
「じゃあ、はい、グラス持って」
 冷えた、苺入りのシャンパングラスを渡され、そして受け取る。滑らかな曲線、すらりと細長いフォルム。苺は大粒のそれが三粒、収まっている。カチン、とグラスとボトルの響く音がして、そうして気泡を立てた黄金色のシャンパンがとぽとぽと注がれる。見る見る間にグラスはシャンパンで満たされる。重そうな苺もそれなりにふわりと浮力で浮き上がり、踊っていた。とぽとぽ―――。
「って、お前、こぼれ……ッ」
「あ、ごっめーん」
 そうとは思っていない口ぶりで、ノミ蟲がやっとボトルを正し、テーブルに置いた。俺の手のひらとバーテン服はシャンパンでしとどに濡れている。グラスを動かせば今にも零れてしまう。手詰まりだ。なんて思ううちに、テーブルを乗り越えてノミ蟲が、手元に顔を寄せていた。
「もったいないよねえ。ほんと、ごめんね?」
 ズッ……と吸い込む音がする。手元で。ノミ蟲の舌先がシャンパングラスの曲面を舐め上げたと思ったら、次の瞬間にはグラスの中身を吸い上げていた。いやに緩慢で、いやに卑猥な動作。伏せられた瞼は、意図したものだと知っていた。
「ほら、これでシズちゃんも飲めるよね。美味しいよ、飲んでみなよ。ああ、濡れちゃった服は後でクリーニング出しておいてあげるから」
 心配しないでと、ノミ蟲が笑う。テーブルに手をつき、こちらを伺うように見上げている。視線だけで。
「ねえ、飲まないの?」
「……の、むけど」
「仕方ないな」
 ノミ蟲の細い指先がグラスに滑りこんだことを、トポン、という頼りなげな音で知る。何考えてンだよ、という疑問はすぐに解決されたが、しかし赤い瞳に似た果物が、俺の目の前に差し出されすぐに新しい疑問が湧き出ることとなる。ああ、コイツ、何したいんだ本気で。
「苺、嫌い?」
「嫌いじゃねェよ……別に」
「だよねぇ、苺味のチョコとか、好きだもんね?」
 差し出された苺は、すぐに奴の濡れた唇に吸い込まれた。もぐ、と音を立て、右頬が膨らんでいたが、すぐにくしゃりと潰されたようだ。数秒の無言の後、ごくりと喉の鳴る音がした。
「じゃあちゃんと食べようね」
 もう一度、トポン、という音がして、苺が引き上げられる。摘み上げられた苺に、時計にしたと同じように口づけてから、奴は俺の口元へそれを差し出した。シャンパンの、甘いにおいと苺の熟れたにおいがする。アルコールが揮発してくらりときた、ような気もする。ああ。
「食べないならまた下のお口行きだけど?」
 唇を開かないでいたら、意地悪げにそう囁かれて、仕方なくその果実を受け入れる。つるりと滑り込んだそれは存外に大きく、舌の上をすべるとゾワリとした。
「ふ、ふふ、ふふふ、はは……シズちゃんと間接チュー、ってね」
「……ッ、」
「美味しい? もう一粒あるよ? ああ、俺のグラスは手付かずだし、これもあげても構わないよ。俺は別に苺が食べたいわけじゃあないからね」
 ぐいぐいと、指先が苺と一緒に滑り込んできて咳き込みそうになる。この細い指先を噛み砕いてやりたい、脳の奥でそう思う。苺の赤と血の赤と、どちらがより赤いだろうか。けれども咳き込んで潤んだ視界の先に、それよりもっと深い赤を見つけてどうしようもなくなる。ああ、本当、早く朝になればいいのに。本当に、息苦しい。死ねよノミ蟲。

【2.16】2010.2.16
【3.26】2010.3.27
作品名:2.16→3.26 作家名:ながさせつや