2.16→3.26
まあなんというか、別天地とか別世界とか、自分にはあまり興味もないし関係ない世界だとは思っていた。豪勢な食事なんてなくても、そこらのファーストフードで腹が膨れればそれで良かった。肌触りの良いベッドカバーなどなくても、慣れた心地の煎餅布団で十分だった。古くて高い名のある酒なんて飲めなくたって、弟が買ってきた缶ビールでいい気分になれる。
「だのにテメェは馬鹿か!」
「馬鹿じゃないよ……うるさいな、シズちゃんが悪いんじゃない」
ノミ蟲は平然とした顔で大きなワイングラスをくるくると繰っている。中で赤ワインがデキャンタされて、ぐるぐると渦を巻いていた。座っているのは窓際に置かれた高そうな一人掛けのソファだ。窓の外には眼下広がる夜景が嫌にきらきらと輝いている。むしろギラギラ。
「俺はね、寂しいよ。切ないよ、空しいね、いっそ。今から十日と少し前にはなにがあったか覚えているかな? 覚えているよねぇ、もちろん。俺の愛してる人間っていうのはそれくらいの記憶装置は持ち合わせているものだ。さあ答えてみてよ。え? 何? 十日と少し前ってどういうことって? っかー、もう、俺にここまで言わせないと思い出せないなんて、ホント、人間って欠陥動物だよね。まあそこが、そこも、それも合わせてラブなんだけど」
「はあ?」
「ホワイトデーだよ、十日と少し前っていうのはホワイトデーがあっただろ? 義理チョコにだってクッキーやマシュマロが返って来るんだ。俺があげたそれにだってお返しがあってしかるべきだろうに。シズちゃん、君はお返しという概念を知っているだろうか」
「ホワイトデー……ってお前な……」
「俺は本当に寂しいよ。待ってたのになあ。十四日、いくら待ってもこない。俺がチョコをあげたのは十六日だったから、十六日まで待ってみた。やっぱりこない。シズちゃんは忙しいし照れ屋さんだからね、ひょっとしたら都合がつかなかったのかもしれない。だからもう少し待ってみた―――今日まで待っても、俺のところになんてきやしない」
本当に残念だったらないね、黒い髪黒い服赤い瞳の男がこちらをうんざりしたような笑顔で見ていた。
「セルティまで使って、こんなところに呼び出して、なんだよ。ホワイトデーのお返し? ンなもんやるような義理ねェだろ」
「そう、優秀な運び屋さんは本当に優秀だよねぇ。俺の呼び出しなんてシズちゃん絶対すっぽかすに決まってるし、嬉しいなあ、ここまで来て貰えたことがむしろ光栄だよ。ああ、そうそう。バレンタインのチョコを貰ったらホワイトデーにはお返しをするのは義務だろ。馬鹿だな、シズちゃん。でもね。俺はもう君からのお礼を待つのに疲れてしまった。だからこうしたんだよ、自分で用意する、ってことにね。ナイスアイディアだろ?」
そして自分で用意したのがこれ―――おそらく新宿一番のホテルの最高級スイート―――かよ。どこもかしこもぴかぴかで、絨毯と見れば毛足が長くて、大理石と見れば鏡面仕上げかってほどの磨かれよう。テーブルもソファもとにかくでかくて、何故か部屋の真ん中にグランドピアノが置いてある。窓は大きいなんてもんじゃなく、壁一面ガラスなんじゃねーのこれ、ってくらい開放的なつくりになっている。目の前の男が今、ここから外へとダイブしたって何の不思議もなかった。それほどまでに妖しくうつくしい人工灯の海が、吸い込んでやるとばかりに広がっているわけだ。下に。
「ま、俺のためのホワイトデーだけどさ、シズちゃんにだって損させないし。ほら、こんないいホテル滅多に泊まれないでしょ。高層ホテル最上階のプレジデンシャルスイート! ここリザーブすんの結構するんだよ? ルームサービス、好きなの頼んでいいし。シズちゃん、お酒好きでしょ?」
「……テメェはいろんな手順を踏み間違えてる」
「真っ当にあたってもどうせシズちゃんはお返しなんてくれないだろ。だから俺は優秀な運び屋さんに頼んだのさ。この部屋に、君を、運んできてってね」
「運ばせて、それで自分でホワイトデーの準備して。マジ、寂しい奴だな」
「うっさいな。気分だよこんなの。雰囲気。分かる? ホワイトデーに極上のスイートルームでお返し貰うってシチュがいいってだけなんだから。それに大人しく付き合えばいいんだよシズちゃんなんて」
手に持っていたグラスの中身をいっきにあおり、ノミ蟲がこちらをねめつける。俺は何するでもなく部屋の中央に放り出されている形になっている。っていうかこの部屋でどうしろって。セルティが何も言わずについてこい、って言うからついてきたらこのザマだ。新宿界隈入った瞬間に嫌な予感はしていた。けれど。
「ああ、でもシズちゃんこんな部屋はじめてで落ち着かない? そんなとこ立ってないで座れば。好きなとこ。ソファでもカウチでもスツールでも。あ、あっちにベッドあるけど、俺の視界からは出ないでね」
「うるさい。俺は帰る」
そうだ、帰ればいいのだ。こんな部屋出てしまえば。そう思って踵を返そうとした。したのだ。確かに。