第三の地平線より『恋人を射ち堕とした日』
恋人同士、と言うとくすぐったいかんじがするけれどなんだか甘い飴玉のようで、その言葉をふたりして笑いあう時に話すたび笑顔がこぼれた。
だけど……。
「まだその傷、治ってなかったの……!?」
あの最初に会った日からどれくらい経っただろう?
うっすらと夜闇に浮かび上がった彼の上半身、胸に刻まれているのは、深い傷。用心してずっと包帯を巻き続けていたあの傷。ああ、ずっと気づかなかった……わたしは、バカだ。
「なぜかふさがってもまた下から盛り上がってきて結局裂けてしまうんだ」
「それって、おかしい。絶対、おかしい」
「そうだよな……一度医者に行ったほうがいいかもしれない」
「うん……」
わたしたちは職業柄、薬草類にどうしても強くなるし、それを好んで使うようになる。なので、よっぽどの怪我や大病を患わない限り街の医者にかかることは稀だった。
それが、それがいけなかった……! もっとはやければ、もっとはやく医者に診せていれば。
街医者に行くのは妙に緊張するから一緒にきてほしいなと彼に言われ、付き添ったわたしは診察の後別室に呼ばれた。どうしてわたしだけ? と彼と瞳で会話しながら入った先では厳しい目をした医者が待っていた。
そして言われたのだ。
これは、医者の領分ではない、と。
これは、魔物の傷だろう、と。
魔物に負わされた傷なら魔法医に診せろと紹介状を書いてもらい、もう少し大きい隣街にすぐさまわたしたちは向かったのだけれど――その頃から、彼は少しおかしくなっていった……。
本来ならわたしと同じような蒼い瞳だった彼の目が時々真っ赤に見える時があった。ひどい時は夜、ふたり眠りに就く時に見えた彼の目が燐光を放っている時すらも。
傷はますます悪化していくようで、ただ下から肉が盛り上がりすぎて裂けるだけではなく黒い色を帯び始めていた……。
もっと早かったらなんとかなった、と言われた。
これは古の伝説にある魔物の傷。
呪いが全身を駆け廻り――
やがては同じ魔物に成り果てるだろう……。
なんて残酷な宣告だっただろうか?
青ざめるわたしと、笑顔を失った彼。
幸せだと思っていたし、彼を失うことはないと……
思っていた、のに。
そして――最後には手がつけらないあの本当の魔物になってしまうならと、わたしたちはあの初めて出会った森の近くで暮らすようになった。その時までふたりでいたかったから。その時まで愛し合っていようと。傷の調子を診て、血を失いすぎないようにということにだけは気をつけた。やがてあの黒いつめの魔物になってしまうとしても――彼は人間だったから。
少しだけ笑顔が減った。少しだけ言葉も減った。それでもふたりできる限り一緒にいたいと願った……あの孤独に戻るのはもういやだとお互い、言葉にすることはなかったけれど同じ想いだった……。
けれども。
ああ、あの時の絶望をなんと言えばいいだろう? 満月が近づくある夜、草の上に敷いた毛布、その簡素な寝床にもぐりこんでいたわたしの首を――彼は、突然絞めた。
真っ赤な目、包帯から染み出した血も赤く、いつも優しげだった容貌はそこにはなくって。
悲鳴を上げたわたしの声で我に返った彼は言ったんだ――ただ、ひと言。荷物をまとめながら。
「避けられない終焉がこれから先に待ち受けているのなら、その時はせめて……せめて、愛しい君の手で……」
殺せ、と。
「夜な夜な抗えないくらいの闇が衝動になって襲いかかってくるんだ。殺したくない、殺したくないのに!」
泣いて、いた。
「このまま魔物になって君を殺すくらいなら、次の満月の夜にもう一度ここで……」
孤独だけれど、と。
次の満月――月は魔の力を増すという話を聞いていたっけ。あの、残酷な宣告の時に。その時にはきっと彼はもう――自分で言っているのだから、尚更確信が持てるとも思えた。
そして……。
わたしの視界は歪んでいた。
世界すべてが螺旋のようにねじれて。
彼の言う通りに満月の夜、わたしは覚悟を決めて銀矢を詰めた矢筒をいくつもたずさえてあの森に。
現れた彼はまだいくらか人の相貌を残しているだけに、哀しくて涙がこぼれた……そして言ったんだ、殺してくれと。
そう言いながら襲いかかってきたあの黒いつめを避けながら泣いていた。ふたりとも。それでもわたしは凛と彼に矢を放つ。
貫いたそれに願いをこめて――命だけじゃなく、もしも輪廻があるのなら彼を人の輪に戻してくれと。そうすれば次に生まれ変わった時、また人としてふたり出会えるかもしれないでしょう?
ぐば、と彼が血を吐いた。ああ、赤い。人の血の、赤……人の顔を残したままの彼はがばとわたしに襲いかかろうとし、そして一瞬だけ躊躇い――その時の表情は魔物のそれではなかった。
「愛シテル……愛シテタ……」
人の意識の中、彼がつぶやいた哀しい言葉に応じるようにわたしは口唇を重ねた。血塗れの口付けは鉄の味……。
「殺、シテ……」
一瞬だけ解放された黒いつめがまた迫ってくる。もう涙はこぼれない。わたしも、彼も。
枯れ果てた涙はその代わりにふたりの双眸へ哀しみの蒼い焔を宿す。
ああ、あの日ふたりが出会わなければ殺しあうこともなかった――しかし愛し合うこともなかったでしょう……人の愛情を知らずに過ごしたでしょう……。
何度も、何度も、矢を放った。なぜか彼は一定距離以上を動こうとしなくってそれが切なく……苦しかった。魔物と人の意識の狭間でどれほどの苦痛と哀しみを彼は抱いているのだろうか?
この日から、わたしの世界から色とりどりの花は失われる。
愛する人を失った世界には、愛されることを失った世界には、どんな色の花が咲くだろう?
夜空に銀色の風が吹く――。
ああ、彼が息絶えるまで矢を放たなければいけないことはわかっていた。そしてわたしに殺されることを彼は望んでいる。
だけど、こんな、こんな苦しいことがこの世にあるだろうか? でも訴えるのだ、彼は……混濁しているであろう、人と魔物の意識の中でも愛してる、愛していたと。
「もう、終わりにしましょう……」
わたしは背中の矢筒から一本の矢を取り出した。銀は魔の象徴でもあり、また月の象徴でもある。それに巻きついた特製の茨……魔物退治専用に使われる、特性の、銀色の、矢。
弓を思い切り引き絞り、放つ――あの時と同じように、眉間めがけて。
「サヨナラ……」
彼は避けなかった。最期の瞬間彼は人の意識でつぶやいた。
月を抱いたような十字の矢じりは、焔のごとく彼の眉間を、貫いた――。
その瞬間わたしの心をも白い光を放つその矢は貫いたのだろう。
彼が受けた凛とした最期の弓矢――それは、わたしをも射ち堕とす。
「サヨナラ……あなたのこと、愛してる。あなたのこと、愛してた。サヨナラ……」
かすれた声はもう、届かない。輪廻が捻じ曲がって人としてまたふたり出会うまで。
わたしは恋人を射ち堕とした。
この日、わたしの世界はすべての色を失った――。
作品名:第三の地平線より『恋人を射ち堕とした日』 作家名:椎名 葵