君を体内(なか)まで愛したい
夜も更けて、錆びれたアパート前の細い道を通る車両も無くなった頃に玄関の戸を叩く音が聞こえた。
帝人はデスクトップPCの液晶画面から顔をあげるとべニアを張ったような古びた扉へ目を向け、そして視線を窓、時計と巡らせた。再び玄関を見る。
深夜2時。時計の針も回り休日の午前と言えど、そろそろ床に就くつもりでいた。
こんな夜更けに人を訪ねてくる人間などいるのだろうか。鬼か蛇か、はたまた変質者か。とにかく知らぬふりをした方が良いだろう。自衛はしっかりしなさいと、両親からも言われている。
帝人は息を殺して物音をたてないように身を固めた。
扉の向こうからは未だ人の気配がする。
とん、とん、と先程と同じ強さで戸を叩かれた。
もしかして知人かもしれない、そんな思いが帝人の頭を過り携帯電話を手にとってみる。何かしら連絡が入っているかもしれない。
「…………」
新着メールも着信も無かった。
とん、とん、ともう一度戸が叩かれた。
静かな夜に似合いの、その音は可愛らしかった。そう言えば夜更けに動物が次々と訪ねてくる小説を昔読んだなと思い出す。しかし、その時は感じえなかった感想を帝人は抱いていた。
怖い。
夜に戸を叩かれるのは怖い。
誰だろう。
次いで、夜にドアスコープを覗いて怪異に会う話も思い出した。
怖い。
怖い、が、もし、もし、今扉を叩いているのが変質者ではなく、怪異だとしたらそれはチャンスなのではないだろうか。この日常からの脱却を一夜だけでも成し遂げる事ができるのではないか。
喉が鳴る音がやけに大きく聞こえたものだった。
帝人はそっと膝に手をついて立ちあがった。
一歩一歩慎重に歩みを進めると、毛羽立った井草に足が沈む様な気がする。
土間に揃えたローファーを踏むようにして扉へ近づいた。
扉の向こうにはまだ人の気配はする。
「……………………」
戸を叩く音は続かない。
気配など、本当に感じる事ができるのだろうか。
もしかしたらもういないのかもしれない。
完全に乾いていない油絵に触れるように、帝人は扉へ片手を着いた。
息を吐く。
静かだった。
何の音もしない。
人は視線を感じる事はできないと言う。それは見られていると思う事による錯覚であると。
では扉の向こうに感じた気配もまた、錯覚で、三度目のノックの後、その音の主はどこかへ行ってしまったのかもしれない。
そう思うと戸を叩く音自体、別の何かの音に感じられた。風に揺れた枝がアパートの壁を叩いただけかもしれない。
帝人は扉から手を離した。
ほっと息を吐く。
音の無い部屋が呻く様な低い音で満たされた。
「わっ」
携帯電話がバイブレーション機能により机の上で低く着信を告げていた。
「あっ、わっ」
静かな夜にそれは爆音の様に聞こえて、帝人は不必要慌てた。どうせ隣人は今夜も不在だというのに。
バイブレーションを止める為に踵を返した帝人の背に、音が降りかかった。
強い音だ。
強く、戸を叩く音だ。
とんとん、などと可愛いものではない、扉を破らんばかりの強さで誰かが戸を叩いている。
「いっ……」
帝人は驚きに足を縺れさせて畳の上に転がった。
扉へ視線を外さず、後ろ向きに這うようにして携帯電話を手にした。
こういう場合は警察だろうか。
鳴り続けるバイブレーションを止める為、帝人は液晶に目をやった。
非通知。
冷たい物が背中を落ちてゆく。
扉が叩かれる。何度も、何度も。
「……はっ」
吐いた息が震えていて、自分でも驚く程怯えているのがわかった。
手の中で自己主張を続ける携帯電話の画面から目が離せない。
これってなんだっけ?メリーさん?家鳴り……ポルターガイストなのか?
帝人の頭にいくつもの都市伝説が浮かんでは消える。
それに行き遭ったら最終的に死ぬのかな…。
息を詰めて、机の上に手を這わせ、指の先に当たった細い物を反射的に握りしめた。
いつしか携帯電話は黙していて、戸を叩く音だけが耳をふさぐ。
「帝人くーん、いーれーてー」
怪訝そうな顔をして深夜の訪問者、折原臨也は机の上の湯呑から茶をすすった。
「帝人君何か怒ってない?」
「…………いえ、別に」
「えー……」
「……………………」
「やっぱり怒ってるよね」
「怒ってませんよ」
「……ふうん。なら、良いけど」
臨也は帝人の手に握られているものを覗き込みながらさもどうでもよさそうな相槌を打った。
「こんな時間にどうしたんですか?」
帝人は臨也を上から下まで一通り確認するように見ると、ばつが悪そうな顔をして手の中のボールペンを机の上に置いた。
第三者からすれば、ボールペンでどうしようと言うのだと思うかもしれないが、溺れる者は藁をも掴むと昔の人も言っている。無いよりは有った方が良いだろう。しかし、「備えあれば憂いなし」と「すぎたるは及ばざるがごとし」とか「善は急げ」と「急ばが回れ」はあまりにも反対の事を言っているように思えるのだが、詳しく言えばそれぞれ違った次元の事について言及していて、正反対と見る事は出来ないのだろうか。教えて偉い人!
そんな事よりも人が訪ねてきただけであれだけ妄想を広げた己があまりにも恥ずかしく、帝人は奥歯を噛みしめて言い訳がましくボールペンなぞ握っていた意味を並べたてるのを耐えた。そうでもしなければ今にも顔から火を噴くか、臨也を置いて部屋を飛び出してしまいたかった。深夜のテンションの謎の盛り上がりとは恐ろしいものである。
「え?ああ、うん」
帝人の視線を追って、自身の胸から足の先まで見ていた臨也は帝人の問いに適当な発声で返した。
帝人の様子がおかしいのが気になった。
もしかして社会の窓でも開いているのかもしれないと思ったがそういうわけでもないようだ。いつもと同じ上も下もコートも黒い出で立ちだ。何ら変わった所は無い。……いつだったかいつも同じ様な服を着ている事を指摘されたが、もしかしたらそれ絡みだろうか。
「帝人君一つ言っておくけどね」
「何ですか?」
「俺は確かに似た服ばかり着ているように見えるかも知れないけど、全部同じってわけじゃないんだよ。きちんと洗濯しているし、似ていてもそれぞれにこだわりがあってね。コートとかも丈違いで結構持ってるし」
「……そうですか」
「以前も言ったと思うけれど、けっして毎日同じ服着てるわけじゃないからね!」
「……サヴァン症候群みたいな凝り方ですね。丈違いで幾つもって」
「いや、そこは突っ込まなくて良いから」
暗に変質的だと言いたいのだろう。
「あの……」
「ん?」
「いや、それで、今日はどういった御用件でしょうか」
まさかこんな非常識な時間にお茶を飲みにきたわけではあるまい。
「ああ、うん。まあね。俺も暇じゃない。君の家にわざわざ出涸らしを飲みに来るほど酔狂じゃあないよ」
勘違いしないでよね!とか続きそうだと思ったが、帝人は黙って続きを促した。
「これを君に届けにきたんだよ」
そう言って臨也がコートから取り出したのは紙カップのヨーグルトだった。食べきりサイズのものだ。
「……………………え?」
帝人はデスクトップPCの液晶画面から顔をあげるとべニアを張ったような古びた扉へ目を向け、そして視線を窓、時計と巡らせた。再び玄関を見る。
深夜2時。時計の針も回り休日の午前と言えど、そろそろ床に就くつもりでいた。
こんな夜更けに人を訪ねてくる人間などいるのだろうか。鬼か蛇か、はたまた変質者か。とにかく知らぬふりをした方が良いだろう。自衛はしっかりしなさいと、両親からも言われている。
帝人は息を殺して物音をたてないように身を固めた。
扉の向こうからは未だ人の気配がする。
とん、とん、と先程と同じ強さで戸を叩かれた。
もしかして知人かもしれない、そんな思いが帝人の頭を過り携帯電話を手にとってみる。何かしら連絡が入っているかもしれない。
「…………」
新着メールも着信も無かった。
とん、とん、ともう一度戸が叩かれた。
静かな夜に似合いの、その音は可愛らしかった。そう言えば夜更けに動物が次々と訪ねてくる小説を昔読んだなと思い出す。しかし、その時は感じえなかった感想を帝人は抱いていた。
怖い。
夜に戸を叩かれるのは怖い。
誰だろう。
次いで、夜にドアスコープを覗いて怪異に会う話も思い出した。
怖い。
怖い、が、もし、もし、今扉を叩いているのが変質者ではなく、怪異だとしたらそれはチャンスなのではないだろうか。この日常からの脱却を一夜だけでも成し遂げる事ができるのではないか。
喉が鳴る音がやけに大きく聞こえたものだった。
帝人はそっと膝に手をついて立ちあがった。
一歩一歩慎重に歩みを進めると、毛羽立った井草に足が沈む様な気がする。
土間に揃えたローファーを踏むようにして扉へ近づいた。
扉の向こうにはまだ人の気配はする。
「……………………」
戸を叩く音は続かない。
気配など、本当に感じる事ができるのだろうか。
もしかしたらもういないのかもしれない。
完全に乾いていない油絵に触れるように、帝人は扉へ片手を着いた。
息を吐く。
静かだった。
何の音もしない。
人は視線を感じる事はできないと言う。それは見られていると思う事による錯覚であると。
では扉の向こうに感じた気配もまた、錯覚で、三度目のノックの後、その音の主はどこかへ行ってしまったのかもしれない。
そう思うと戸を叩く音自体、別の何かの音に感じられた。風に揺れた枝がアパートの壁を叩いただけかもしれない。
帝人は扉から手を離した。
ほっと息を吐く。
音の無い部屋が呻く様な低い音で満たされた。
「わっ」
携帯電話がバイブレーション機能により机の上で低く着信を告げていた。
「あっ、わっ」
静かな夜にそれは爆音の様に聞こえて、帝人は不必要慌てた。どうせ隣人は今夜も不在だというのに。
バイブレーションを止める為に踵を返した帝人の背に、音が降りかかった。
強い音だ。
強く、戸を叩く音だ。
とんとん、などと可愛いものではない、扉を破らんばかりの強さで誰かが戸を叩いている。
「いっ……」
帝人は驚きに足を縺れさせて畳の上に転がった。
扉へ視線を外さず、後ろ向きに這うようにして携帯電話を手にした。
こういう場合は警察だろうか。
鳴り続けるバイブレーションを止める為、帝人は液晶に目をやった。
非通知。
冷たい物が背中を落ちてゆく。
扉が叩かれる。何度も、何度も。
「……はっ」
吐いた息が震えていて、自分でも驚く程怯えているのがわかった。
手の中で自己主張を続ける携帯電話の画面から目が離せない。
これってなんだっけ?メリーさん?家鳴り……ポルターガイストなのか?
帝人の頭にいくつもの都市伝説が浮かんでは消える。
それに行き遭ったら最終的に死ぬのかな…。
息を詰めて、机の上に手を這わせ、指の先に当たった細い物を反射的に握りしめた。
いつしか携帯電話は黙していて、戸を叩く音だけが耳をふさぐ。
「帝人くーん、いーれーてー」
怪訝そうな顔をして深夜の訪問者、折原臨也は机の上の湯呑から茶をすすった。
「帝人君何か怒ってない?」
「…………いえ、別に」
「えー……」
「……………………」
「やっぱり怒ってるよね」
「怒ってませんよ」
「……ふうん。なら、良いけど」
臨也は帝人の手に握られているものを覗き込みながらさもどうでもよさそうな相槌を打った。
「こんな時間にどうしたんですか?」
帝人は臨也を上から下まで一通り確認するように見ると、ばつが悪そうな顔をして手の中のボールペンを机の上に置いた。
第三者からすれば、ボールペンでどうしようと言うのだと思うかもしれないが、溺れる者は藁をも掴むと昔の人も言っている。無いよりは有った方が良いだろう。しかし、「備えあれば憂いなし」と「すぎたるは及ばざるがごとし」とか「善は急げ」と「急ばが回れ」はあまりにも反対の事を言っているように思えるのだが、詳しく言えばそれぞれ違った次元の事について言及していて、正反対と見る事は出来ないのだろうか。教えて偉い人!
そんな事よりも人が訪ねてきただけであれだけ妄想を広げた己があまりにも恥ずかしく、帝人は奥歯を噛みしめて言い訳がましくボールペンなぞ握っていた意味を並べたてるのを耐えた。そうでもしなければ今にも顔から火を噴くか、臨也を置いて部屋を飛び出してしまいたかった。深夜のテンションの謎の盛り上がりとは恐ろしいものである。
「え?ああ、うん」
帝人の視線を追って、自身の胸から足の先まで見ていた臨也は帝人の問いに適当な発声で返した。
帝人の様子がおかしいのが気になった。
もしかして社会の窓でも開いているのかもしれないと思ったがそういうわけでもないようだ。いつもと同じ上も下もコートも黒い出で立ちだ。何ら変わった所は無い。……いつだったかいつも同じ様な服を着ている事を指摘されたが、もしかしたらそれ絡みだろうか。
「帝人君一つ言っておくけどね」
「何ですか?」
「俺は確かに似た服ばかり着ているように見えるかも知れないけど、全部同じってわけじゃないんだよ。きちんと洗濯しているし、似ていてもそれぞれにこだわりがあってね。コートとかも丈違いで結構持ってるし」
「……そうですか」
「以前も言ったと思うけれど、けっして毎日同じ服着てるわけじゃないからね!」
「……サヴァン症候群みたいな凝り方ですね。丈違いで幾つもって」
「いや、そこは突っ込まなくて良いから」
暗に変質的だと言いたいのだろう。
「あの……」
「ん?」
「いや、それで、今日はどういった御用件でしょうか」
まさかこんな非常識な時間にお茶を飲みにきたわけではあるまい。
「ああ、うん。まあね。俺も暇じゃない。君の家にわざわざ出涸らしを飲みに来るほど酔狂じゃあないよ」
勘違いしないでよね!とか続きそうだと思ったが、帝人は黙って続きを促した。
「これを君に届けにきたんだよ」
そう言って臨也がコートから取り出したのは紙カップのヨーグルトだった。食べきりサイズのものだ。
「……………………え?」
作品名:君を体内(なか)まで愛したい 作家名:東山