黎明録/if
恥じらい、千景の顔をまともに見られないまま、顔を赤くして突慳貪な態度でいると、彼はふっと笑みを浮かべるだけで、何も言わない。
何も言ってくれないと…それはそれで…気まずいし、恥ずかしいんですけど…。
心の中で、独り言つ。
このまま黙っているのも恥ずかしく、また、味気ないように思って、千鶴は口を開いた。
「……昔も、こんな風に歩きましたね…」
「…昔…?」
「…ほら、まだ京にいた頃、お盆に…」
あの頃が、もう酷く遠いように思うのに、ふたりの距離はあの時のまま。それが、不思議な気持ちさせる。
千景はようやく思い至ったように小さく頷いた。
「ああ…お前が俺の腕につかまりたいがため、鼻緒を切らせた時のことだな」
「ど、どうしたらそんな器用な真似が出来るんですか。それに、そもそも、なにか見解が大きく間違っているように思えるんですけど」
「何がどう違うのだ」
「………。もういいです」
はぁと息を漏らして、その会話を打ち切った。
「千景さんは昔と全然変わりませんね…」
あの頃よりは、丸くなったようには思うが。
「千鶴もさして変わっておらぬだろう」
「……それは否定しませんけど」
昔はもっと、接しにくいひとだと思っていた。でも、今はどうだろう。時々根本から間違っている彼の見解や、身勝手にも近い言動に、振り回されながらも慣れて馴染み、対応出来ている自分がいる。長く旅をし、雑居したからだと思っていたが、江戸で彼と暮らしはじめて、それだけではないと感じ始めていた。
過去、彼は妻だ嫁だと千鶴に言い続け、困惑させてきたが、あの頃よりずっと真実みを帯びてきた。
”嫌いじゃないなら、それで充分じゃないか。これからしっかり好きになればいい”
龍之介に言われた言葉が蘇り、まったくその通りだと淡い笑みを浮かべて、前を向く。
優しく千鶴の背中を押してくれた彼に、もう一度感謝する。
千鶴が困った時、傍にいてくれたのは千景だった。言葉こそ少ないが、千鶴を厳しい態度で励まし、時に奮い立たせ、そして慰めてくれた。その度に、千鶴は心を震わせ、胸を熱くしてきた。
もう、目をそむけない。
この気持ちと真に向き合った時、新しい一歩を踏み出す日が訪れる。その時が来たら、けして、振り返りはしない。踏み出した一歩を信じて、彼に着いて行こう。
わたしは、千景さんの前ではなかなか素直になれなくて、意地を張ってしまう。だから、せめてそのきっかけは、千景さんが作ってくださいね…。
そっと千景の横顔を見上げると、彼女の視線に気づいた千景の眼差しが下りてくる。
そこにわずか、甘いものを感じとって、千鶴は自然と笑みを浮かべ、彼に応えたのだった。
了